淡路会議声明 2015

2015年8月1日(土) 第16回アジア太平洋フォーラム・淡路会議

 第16回淡路会議は「アジアの未来―政治・経済・文化―」が共通テーマでした。このテーマが取り上げられた前提には、近年、特に冷戦終結後の国際環境の激しい変動があったことは、誰しもが認識を共有していると思います。冷戦期は米ソの二大陣営の衝突などといわれていながら、意外にもその二超大国がしっかり秩序を仕切っていた。それが冷戦後、崩れました。そして、崩れた1990年代に何が起こったかというと、一方で市場経済及び自由民主主義の世界的な一般化、さらにIT新技術による経済・社会のグローバル化がありました。
 ただ、そのグローバル化の波に、世界が一面的に覆われ染められていったのかというと、全くそうではありませんでした。グローバル化の波が地表を覆えば、逆に各民族のアイデンティティが高まり、地理と歴史の復活が起こります。今まで二超大国が抑え込んでいた各地域の歴史的な対立が表面化し、民族紛争や宗教紛争が尽きない時代になりました。グローバル化の進展と地域アイデンティティの爆発という両極的状況が進んだと思います。

 また、今回かなり意識的に論じられたことですが、長期的な発展不均衡というか、米欧日の三極中心の先進諸国秩序によるガバナンスが大きく揺らいで、中国をはじめとするいくつもの新興国が台頭してきました。それに伴いパワーバランスが激しく揺らいで、1990年にはG7諸国が世界のGDPの65%(約3分の2)を占めていたのに対し、2018年には過半数を割って45%まで低下し、代わって新興国が1990年時点の20%から倍を超える41%まで高まると予測されています。このような世界的な構造変動、バランスの激変のさなかに、われわれは生きているわけです。つまり、グローバル化とアイデンティティの再生によって安定した秩序が失われた上に、そのようなパワーバランスの変化が経済を土台にして政治・安全保障にも影響を与えずにはおかないという状況を迎えています。

 アジアの未来が、台頭するアジアの先にあることは言うまでもありません。とりわけ中国の台頭が大変なインパクトを持っています。鄧小平の下で改革開放が始まったのは1978年からで、中国は80年代に猛然と成長を開始しました。それでも冷戦が終わった1990年には、中国は世界のGDPの1.7%しか占めておらず、当時14%を占めていた日本よりもずっと小さな国でしかありませんでした。それが2018年には14.2%を占めるだろうといわれていて、中国は30年ほどの間に大跳躍を遂げたわけです。一方、日本は14%から6%に転落します。中国は日本を抜いてアジア断トツの1位となり、その勢いのまま、2020年代にはアメリカに追い付き、追い越すのではないかといわれるくらいの台頭ぶりを示しています。

このたびのシンポジウムでは、タンガベル先生から東南アジアについて非常に立ち入った精緻な分析を頂きました。東南アジアはそれ自体がかなりの成長を遂げており、世界のGDPに占める比重も1990年から2倍以上に大きく成長しています。ただ、成長は遂げているものの、問題は少なくないということを、先生は幾つかの局面を取り上げて指摘されました。深刻な格差、拡大するサービス分野の生産性の向上が容易ではないこと、技術移転が難しく、教育・人材育成が欠けていて、熟練労働者層を始め中間層の厚みがなかなか増していかないことなどです。今後、成長していく中でうまく再分配を行い、格差を是正していかなければ、成長が止まった途端に政治が破綻を来す危険性もないわけではありません。これは白石先生が指摘されたことですが、格差の問題と民族や宗教のアイデンティティ問題が結び付くと、そこには極めて熾烈な爆発が生じうる。ですから、貧しい人々を社会に組み入れる包摂性(inclusiveness)に心していかなければいけません。

また、持続可能な社会づくりのため、人材づくりが何より重要だというタンガベル先生のお話と表裏を成す形で、大野先生からは日本の中小企業が非常に細やかに東南アジア、ASEAN諸国に浸透していって、いろいろな活動を展開しているというお話をしていただきました。そういえばタンガベル先生も、現状について問題点を指摘しつつも、将来について何か希望があるという楽観的な口調であったのが印象的でした。

そういう中で、やはり難しいのは中国です。TPP(環太平洋パートナーシップ協定)はアメリカ主導でその発言権が強いとはいっても、最終的に合意すればアメリカでさえその合意に支配されるという多国間主義(マルチ)に立つルール・メーキングであるのに対して、中国は1992年に領海法を国内的につくって以降、尖閣諸島や南シナ海に力による支配を広げようとするところがある。中国内において最高指導者が超法規的存在であるように、国際的にも中国は周辺国に対して超法規的存在であるかのようです。中国の欲する領土と資源は中国のものであり、周辺国はそれを受け入れなければいけないという古代からの在り方です。そういうアプローチを取る国がアジアの中心にあるということは、非常に悩ましい問題です。なんとか、国際社会がこの問題で中国と話をして治めなければ、未来は悲惨となりかねません。

20世紀の資産は、あの戦争と革命の時代の中からも生まれました。それは国連がつくられて、侵略戦争はしない、紛争は平和的に解決することとなったことです。また、第二次大戦の前に、日本やドイツが「われわれは資源も市場もない。持っている国々が排他的に押さえ込んでいる。だからわれわれは力を振るって自分の勢力圏を切り開くほかないのだ」と、「持たざる者の正義」を振りかざして戦争を起こしました。これを受けて、アメリカやイギリスが中心になって、新たなドイツや日本が出てこないように1944年にニューハンプシャーで行われた連合国通貨会議で基本合意をつくり、ブレトン・ウッズ体制を打ち立てました。そして、これに基づいて国際復興開発銀行、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)、IMF(国際通貨基金)といった戦後の自由貿易体制がつくられました。かつてなく自由な貿易が可能で、資源のない日本のような国でもお金さえ払えば資源が買えて、良い物さえ作ればいくらでも売れるという基本ルールに変わったわけです。大戦という大きな代償を払って、資源と市場の共同利用という公共財を人類史は手にしたのです。

記念講演をしてくださった福田元総理は、かなり配慮に富んだ温かい言い方で、日本国内には「中国けしからん」と言って腕まくりをしたがる傾向があることに対し、中国は今夢中で近代化・工業化に走っている、そういうときには自分の脅威に案外気付かないものだということを、かつての日本の姿に省みて話されました。日本が1960年代、1980年代に猛然と世界経済の中で支配的立場を築いていったとき、それに他国は恐怖を感じていたことに日本人は気付かず、いい気になっていたという例を出しながら、今の中国にもそういう面があるかもしれないという考えを示されました。また、高原先生はそのことについて、他国の問題点にはすぐに気が付くが、自分の問題点には気付きにくいものだとおっしゃいました。

ですから、われわれは国際的な交流と対話をする中で、中国の人たちにそういうことを分かってもらう努力をしなければなりません。それとともに、日本自身が戦争の過去をしっかり清算する必要があります。戦争の過去を超えて、深く話し合うことができなければ、共同で未来を築くことはできないのです。

白石先生は、アジアにおいてはヨーロッパと違って経済面と安全保障面の乖離が極めて大きくなっていると指摘されました。経済では中国が猛然と台頭して、アメリカをも抜き去るかもしれない勢いを示しているのに対して、安全保障面ではアメリカがハブ・アンド・スポークスの秩序を敷いて圧倒的な立場を築いています。中国も恐れる唯一の存在であるアメリカが、南シナ海問題を含めた中国の力による現状変更について、ようやく最近になって世界に注意喚起を始めました。オバマ政権の後に出てくるアメリカの政権は、恐らくこの問題によって中国に対してより厳しくなるでしょう。アメリカはもちろん戦争を考えているわけではありませんが、一方的な支配を抑制しなければ、アジアにおける秩序の維持は容易ではありません。アジアにも島嶼部の国と大陸部の国の対応の違いもありますが、中国とあまり対抗力のない周辺国だけのゲームで終わらせると、秩序は危ういものになります。

それでは日本としてどのように対処するかということですが、分科会の議論では、自助努力をしっかりして、抑止力は一定限度でとどめるという意見が多数派でした。抑止力というのは、軍事用語で言うと相手の中枢部を撃ち抜く能力です。それができるから相手は手を出さないだろうというのが抑止の理論です。その意味では、日本は他国の脳天や心臓を刺し貫く力は持っていませんし、持とうともしませんから、いかなる国に対しても抑止力は持っていません。拒否力を持っているだけです。侮りがたい抵抗力はあるので、手出ししないでくださいという能力しかないのです。中国の軍事能力の拡大がすさまじい中で、日本は対抗して軍拡し抑止力を持とうとするのではなく、冷静に自助能力は一定程度しっかり持っている必要があります。

そして、重要なのは国際的連携です。オーストラリア、ASEAN諸国、インドなどを含めて、国際的連携において中国に対する説得力、影響力を持っていくことが大事です。それから、日米同盟を深化させて、アメリカが秩序を保つという国際公益的な役割をしっかり果たせるようにする必要があるだろうと思います。さらに、それ以上に重要なことは、中国との間で共同利益を可能にするような前向きな関係を築いていくことです。これは政治指導者に大いに責任があるところです。「日米同盟プラス日中協商」がなければ、21世紀の日本の安全はありません。最終的には中国と共同利益の関係を構築することが非常に大事です。

国レベルが一つ間違うと、大変なことになります。戦前にも、ジャパン・ソサエティがアメリカに、日米協会が日本にありました。民間における日米の交流を重視する集まりやIPR(太平洋問題調査会)という専門家の会議もありました。当時、日本とアメリカの貿易関係・経済関係は非常に大きくなっていました。しかし、そのような民間の努力と経済関係の深まりにもかかわらず、日米戦争が勃発しました。戦争は、ひとたび発動すれば全てを根こそぎ破壊してしまいます。どんな悲惨な状況をつくり出すかということを、忘れてはいけません。

従って、国・政治の任務は極めて重い。しかし、そう言って事が済むわけではありません。この会議でも絶えず強調されたように、市民・民間レベルでの交流、都市間・地域交流、NGO、分野別交流が非常に大切です。日米が太平洋で死闘を繰り返した後、日米関係が安定したのは、そうした要素が非常に大きいのです。ロックフェラー財団の支援により東京・六本木に国際文化会館が造られ、フルブライト計画によって志ある日本の若者が招かれて、戦後の日米関係を民間が土台からしっかり支えたことの重大さが、この会議でも強調されました。それに関連して、近藤元文化庁長官はエラスムス計画とアーティスト・イン・レジデンスを提案され、高原先生は公論外交(パブリックディプロマシー)について話されました。日本にとって望ましい構想ではないでしょうか。

最後に、戦後日本の和解の問題について、一言付け加えたいと思います。サンフランシスコ講和条約で日本は戦争を終え、国際復帰しましたが、そのときにアメリカをはじめとした先進諸国は日本に対する賠償を放棄し、日本の侵略を受けたアジアの国々については個別に日本と賠償協定を結べばいいということになりました。ただ、ダレス国務長官顧問は、第一次大戦のドイツに対する天文学的賠償金がかえって戦後世界を不安定にし、たった20年でまた世界大戦を生み出したことから、日本に対しては経済がこなせる範囲を超えた過大な賠償をしてはならないとの方針を示しました。これは日本にとって非常に幸運なことで、アジアの戦災国との間で金額の争いはありましたが、最終的には日本側が相手の言うことをかなり聞くことによって各国との合意がなされました。

しかも、当時、第二次大戦がすぐに冷戦に取って代わられ、日本は自由民主主義のアメリカ陣営に入ったので、ソ連の共産陣営との対抗関係が厳しいものになるほど、アメリカは日本に対して戦争の始末についてとやかく言うことを抑えました。

その結果、冷戦が終わった後になって、各国が日本に対して戦争の問題を再提起するということが起きてきました。中でも相手は三つに分かれます。一つ目は東南アジアです。東南アジア諸国で賠償協定を結ばなかったところは、日本が経済協力協定を結んでODAを提供し、気持ちを示しました。

1977年の福田ドクトリンと呼ばれるマニラでのASEAN首脳会議におけるスピーチで、福田赳夫総理は、「日本は経済大国になっても軍事大国にはならない」、そして「アジアの諸国民と心と心の触れ合う友好関係を築きたい」、一国一国ではなく「東南アジア地域全体の開発のために力を尽くす」と、表明しました。福田ドクトリンは、言葉だけではなく、その後の3年間で日本のODAは倍増し、その後の5年間でさらに倍増しました。アメリカからは日本の再軍備強化への圧力もありましたが、軍事費をGNP(国民総生産)の1%以上に増やすようなことはせずに、むしろ日本としては東南アジアなど途上国の発展のために力を尽くしたいという姿勢を貫いてきました。日本は経済国家で、利益の体系に生きる国家となりましたが、それに発展しようとするアジア諸国の力になるというフレーバーを付け加えたのが、戦後の日本の文明であったと思います。そういう陰徳を積む行いが東南アジアとの間の静かなる和解が可能になったわけです。

しかし、それで済まなかったのが中国、韓国です。韓国の植民地支配の35年間は、戦時動員や創氏改名まで強いられる、彼らにとって大変耐えがたいことだったわけです。また、中国は8年もの非常に長い戦争に苦しみました。この重さを、われわれ加害者の方は簡単に戦前のこととして片付けてしまいますが、1945年までその時代は続いていたわけですから、簡単には忘れられるものではありません。それをわれわれは何とかしなければいけないというのが、福田元総理がおっしゃった清算ということです。

韓国については、1998年に金大中大統領が東京に来て歴史的和解をオファーしてくださり、小渕首相はこれを多として植民地支配に対する謝罪を書き、未来志向の日韓協力の合意ができました。

しかし、翌月に来日した中国の江沢民国家主席は、そうはいきませんでした。日本国民は、江沢民国家主席が戦争の過去を至る所で糾弾し、宮中晩餐会でまでそれを言ったというので大変憤り、日本国内に「対中土下座外交反対」の機運が生まれました。さらに、小泉総理が靖国神社を参拝するという行動に出て、それによって日中の首脳会談もできなくなってしまいました。そして、その中で韓国も金大中大統領以後は逆流を起こして、日中、日韓関係は今に至る大変難しい事態に舞い戻ってしまったのです。

安倍総理の米国連邦議会上下両院合同会議におけるスピーチは非常にうまくいきましたが、それが戦争への反省、戦後の日本の平和的な生き方、そしてそれを踏まえての積極的な希望の同盟という3段階で論じられたことは、間違いではなかったと思います。しかし、70年談話はワシントンではなくアジアで行われます。そうであるならば、戦争の過去について現在の日本の認識が示されねばなりません。「侵略」「植民地支配」「謝罪」「反省」の四つの言葉が入るかどうかという狭小な議論ではないわけです。当時の戦争でひどい目に遭った人たちに、心のこもった言葉で心からのおわびとお見舞いを申し上げて、はっきりと自己批判して戦争を否定しつつ、戦後日本の平和的な生き方をアピールし、今後の協力を得ることが必要です。自分は過去からさらりと逃げておいて、中国に力による現状変更はいけないなどと言っても通用しません。あのときにはそういう振る舞いがあって大変申し訳なかったと言いながら、中国へのたしなめを含むような構成の70年談話になればいいのではないかと思います。

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