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HATコラム

「防災・減災、復興の基盤をつくる「学び」」

清原 桂子((公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構参与 神戸学院大学現代社会学部教授)

清原 桂子
((公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構参与
神戸学院大学現代社会学部教授)


1952年生まれ。
東京大学大学院教育学研究科修了。
兵庫県阪神・淡路大震災復興本部総括部生活復興局長、
同総括部長、理事、
(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構副理事長を歴任。
神戸学院大学現代社会学部教授。

戦後、住民による学習が大きく展開された時期には、3つのピークがある。

第1のピークは、1940年代後半から1950年代。戦後の農村の復興のために、青年団や婦人会などを中心に取り組まれた、身近な生活課題を少人数で話し合う「話し合い共同学習」である。農作業の合間に、田んぼのあぜ道に丸く車座になって話し合いが重ねられ、1950年代以降公民館の整備が進むまでは、「青空公民館」ともいわれた。1954年度から静岡県稲取町、山梨県柏村で実施された実験社会学級における「生活をみつめ、生活を高めよう」というテーマ、「話すこと、きくこと、書くこと、考えること」という学習手法は、1956年度からの文部省委嘱婦人学級などによって全国に広がった。

第2のピークは、1960年代後半から1970年代である。サラリーマン社会化、地域社会の人間関係の希薄化、核家族化が進み、「密室の中のひとりぼっちの子育て」や介護の孤立、高度経済成長の負の側面ともいうべき消費者問題や環境問題などの課題が顕在化する中で、それらに取り組む学習も各地で展開されていった。公民館のみならず、市民センターや市民会館などのハコものが整備され、そうした会場における「○○市民大学」といった「講義方式」の連続講座も活発に行われていくようになる。

「講義方式」の学習は、「話し合い共同学習方式」への「身の回りのことに終始しているだけではないか」という批判に対し、社会的歴史的視野を掘り下げることを目標として掲げたが、逆に、講義をきくだけでは一方的に「承(うけたまわ)る」だけとなりがちであった。そこで、1980年代から1990年代前半にかけては、講義と話し合いを組み合わせた「サンドイッチ方式」の学習や、グループワーク、現地体験などの参加型・体験型の学習が工夫されていった。

阪神・淡路大震災が起こった1995年は、そうした模索が重ねられていた時期である。震災後の被災地では、これらの参加型・体験型の学習に加え、ワークショップ型、学習の企画・運営そのものを自分たちで行う参画型、さらにNPO法の施行(1998年)やインターネットの発展を背景に、地域団体・NPO、企業、大学、行政などが一緒に学ぶ機会を用意し、学ぶ過程におけるネットワークの広がりを意図した協働型の学習も広がっていった。被災地の取り組みが大きな牽引車になった1990年代後半から2000年代にかけてのこの時期が、第3のピークである。

震災から半年後の1995年8月にスタートした「フェニックス・ステーション」は、フェニックス協力員5人以上を集められるフェニックス推進員を募集し、ファクス・パソコン・掲示板の無償貸与と年46万円の活動費で、被災者のニーズに合わせた学習内容・方法の講座を被災者自身に企画・運営してもらうものであった。思いをもって応募した180人の推進員たちが、年間2,000件以上の事業を実施し、そこで多くの人間関係が培われ、情報が共有されていった。そのほか、「いきいき仕事塾」(1995年)、「NPO大学」(1997年)、コミュニティビジネスに挑戦するための「女性たちのしごとづくりセミナー」(1995年)、「シニアしごと創造塾」(1998年)、「コミュニティビジネスゼミナール」(1999年)なども、協働型学習事業の一例である。

阪神・淡路大震災からの復興の大きな特色の1つは、その意味で、復興の基盤に民間と行政の協働による住民たちの「学び」があったことである。その過程で多くの人材が力をつけ、さらにネットワークを広げ、東日本大震災へもその経験をもって自ら支援に入っている。

防災・減災、復興について議論する場で「普及・啓発」、「周知徹底」、「教育・研修」といった言葉がよく使われるが、何か上から目線を感じることも少なくないし、「教育」というときも、中身は、学校教育での防災教育だけが触れられていることも多い。しかし、長い復興を支えるのは、そして、主体的な防災・減災への行動の大きな力になるのは、住民一人一人の地域や職場における「学び」であることも、ぜひ発信していきたいと思う。