現在、国民の多くは貯蓄に勤しんでいる。それには多様な理由があるにせよ、基本的には老後が不安だから、それに備えている。日本国民が勤勉であるからだけではない。老後の社会保障への不安は、いうまでもなく国に対する不信が前提になっている。政府が内需拡大を奨励しても、その不安が解消されなければ、それは無理な注文である。
憲法第25条では、理念として、すべて国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると、まず規定している。これは生存権という言葉に象徴されているように、わが国が高経済成長期を経るまでの戦後の貧しい段階では、日本国民としてのミニマムである最低限度の生存を国が保障することとして認識されてきた。そして、その具体的政策として生活保護法を制度化してきた。しかし、ここでは「健康」についてはもちろんのこと、「文化的」についても何も規定されてはいない。
いま問われているのは、その健康ないし文化的とは何かということである。老人福祉法が制定された1963年から老人医療費無料制度などを経て、2000年には介護保険法が施行されている。その間、年金制度も確立し、多くの国民の老後はほぼ安定してきている。なのに、なぜ国民にとって老後が不安なのか。それは国が国民とともに国民の老後にいたる一生涯に対して責任を負うことを宣言していないからである。いま国民は、老いて健康で文化的な生活を営んでいくのに、この国に生まれてきて本当によかったと思いたい。それは、もちろん単純な、受け身の存在としての国家依存の表明ではない。
憲法第25条第2項では、国の責務として、すべての生活部面において社会福祉、社会保障、および公衆衛生の充実を規定している。すでに遅きに失するが、喫緊の課題として国は、わが国における社会保障の基本理念および基本枠組を明示して、すべて国民が誇りにできる「社会保障基本法」をただちに制定すべきである。ただ、このように書いたからといって、あたかも国の責任によってすべて老後が不安でなくなることを期待しているとでも主張しているかのように理解されてはならない。
そのように考えてしまうこと自体が依然として国民は国に対して要求だけしかしない依存型国民であるという認識に立っているからであろう。むしろ今日、ほとんどの国民は国の政策が明確であって納得できれば、それに十分に協力的であり、かつ率先してその政策のために納税はもちろん、さらに多様な参画と協働に対して否定的ではない。通常では、積極的に参画するとき、はじめて自らの生き甲斐さえ見いだせるものと考えている。それが可能になるような社会保障システムを宣言することこそ社会保障基本法の理念であるべきである。
また雇用保障という点では、若年労働者たちにとっては、ただ単に最低限の社会的セーフティ・ネットを保障するだけでなく、そこに落ち込んだとしても、ただちに再チャレンジができる、社会的アクティヴ・トランポリンの機能が内蔵されているような社会保障システムでなくてはならない。そのような理念が実現されている場合に限って、それは消費税率の引き上げの前提にもなり、また内需拡大化の前提にもなるはずである。