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野々山久也研究統括のクォーターリーコラム   <<<back number>>>


      No.9 (2010年度春号) 少子化対策のための育児休業制度の限界性
      No.8 (2009年度秋号) 自助・公助・共助-家族の存在意義を考える-
      No.7 (2009年度夏号) 理念としての社会保障基本法の制定化の提言
      No.6 (2009年度春号) 家族の多様化とその後の社会のあり方
      No.5 (2008年度冬号) 規範意識としての公共マナーについて
      No.4 (2008年度夏号) 共生社会づくり政策の研究という課題
      No.3 (2007年7月) 「家族の日」の制定について
      No.2 (2007年3月) 課題としての家族の位置づけ
      No.1 (2006年12月) イギリスのラウンドアバウトについて
 

No.9
(2010年度春号)

少子化対策のための育児休業制度の限界性

2010年度春号

少子化対策は、喫緊の課題とはいえ、なかなか極めつけの解決方法は見つからない。働く女性たちが増えたのに、政策的には結婚や出産ならびに育児に際しては「女性たちよ、家庭に帰れ」などと叫んできた時代があった。その時代の政策とは異なって、今日では女性たちの働く環境が整備されていないから必然的に少子化に向かうと主張され、その主張を受け入れて、保育所を増設し、さらにこれまでは、家庭においては勿論のこと、職場や地域社会などにおいても積極的に男女共同参画を推し進めることによって少子化を克服する方向を検討し、さまざまな政策が打たれてきた。

その1つに、とくに職場における男女共同参画を推進するため、加えて女性たちをはじめ働く人びとのワーク・ライフ・バランスを推進するために育児休業制度が樹立されてきた。確かにキャリアを追求しようとしている女性たちには、この政策は、それなりに有利に作用して、今日的な統計データからは大手企業に勤務する正規社員の夫をもつ、同じく大手企業あるいは公務員などの正規社員の女性たちの出産児数は、その他の女性たちの出産児数の割合とは有意に異なる結果になってきている。こうした政策が有意義であったことの証明になっているといってよい。

しかし今日的には、とくに若い女性たちに非正規雇用として働く人びとが急速に増大してきている。場合によっては、その夫たちも非正規雇用であったりしている。このような現実において育児休業制度は、どのように機能しているのだろうか。この制度の利用は、あくまでも雇用保険制度の枠のなかで実施されていることから夫婦が共に正規雇用の共働きであることが前提である。したがって、公に発表される育児休業取得率についても、あくまでも夫婦が正規雇用の共働きの今日的にはエリートたちの特権的な取得率にすぎない。ときに男性の取得率が問題にされたりするが、それは極めて特権階級の特殊な数値を問題にしていることになる。

若い男性をはじめ、とくに女性たちの非正規雇用の増大は、出産どころか結婚さえも叶わない状況にある。この時点において少子化対策としての今日的な育児休業制度の限界性は、明白である。少子化対策には、新たな政策展開が望まれている。考えられる今後の方向としては、少なくとも育児休業制度は、正規雇用および非正規雇用にかかわらず、すべての出産および育児にかかわる男女に取得可能な普遍主義的な政策として保障することこそ喫緊の課題ではないだろうか。

 
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No.8
(2009年度秋号)

自助・公助・共助-家族の存在意義を考える-

2009年度秋号

家族は、なぜ存在するのか、あるいは存在しなければならないのか。その答えは「共助」とは何かを問うことによって明らかになる。もちろん人間は自立して生きていかなければならない。いわゆる自助である。しかし、このことは自分さえよければ、他人はどうでもよいという考えを助長する可能性がある。とうぜん自助では生きていけない人びとがいる。たとえば、重症の病人がしかり、乳幼児がしかり、要介護の高齢者がしかり、重度の障害者がしかりである。

これらについては、まず公助、すなわち官立の社会政策で対応するという考えが浮上してくる。このことは十分に納得できる。とはいえ、公助で対応できることには限界がある。このことを理解しなければならない。あるいは、より有益な対応としては公助ではない方が望ましい場合も少なくない。それは自助でもなく公助でもない、「共助の原理」によるものである。

家族は、その自助でもない公助でもない、いわゆる共助の原理で対応する1つの社会制度である。人類が長い歴史のなかで工夫を重ねて築きあげてきた制度であり、制度的な集団である。すなわち、家族は、少なくとも乳幼児期からの子ども期の直接的な生活保障の基礎を提供し、かつその社会に適応できるための準備としての第一次的社会化の基礎を提供する働きをするものと期待され、事実として現実的に遂行してきている。今日的には、このほかにも家族構成員である大人たちの精神的安定化の保障という働きも大きく期待されている。

共助は、すでに家族以外にも多くの場面において展開してきている社会現象である。これまで気づかれてこなかっただけである。その共助をいま改めて見つめなおすことが期待されている。それは家族を超えたところに共助が求められてきているからである。国家や行政に依存するまえに個々にではなく共力して共に生きていく新しいあり方としての共助の道の開拓は、21世紀の大きな課題であるといってよい。家族を自助の領域から共助の領域に位置づける発想への転換は、まさに21世紀の発想である。

 
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No.7
(2009年度夏号)

理念としての社会保障基本法の制定化の提言

2009年度夏号

現在、国民の多くは貯蓄に勤しんでいる。それには多様な理由があるにせよ、基本的には老後が不安だから、それに備えている。日本国民が勤勉であるからだけではない。老後の社会保障への不安は、いうまでもなく国に対する不信が前提になっている。政府が内需拡大を奨励しても、その不安が解消されなければ、それは無理な注文である。

憲法第25条では、理念として、すべて国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると、まず規定している。これは生存権という言葉に象徴されているように、わが国が高経済成長期を経るまでの戦後の貧しい段階では、日本国民としてのミニマムである最低限度の生存を国が保障することとして認識されてきた。そして、その具体的政策として生活保護法を制度化してきた。しかし、ここでは「健康」についてはもちろんのこと、「文化的」についても何も規定されてはいない。

 いま問われているのは、その健康ないし文化的とは何かということである。老人福祉法が制定された1963年から老人医療費無料制度などを経て、2000年には介護保険法が施行されている。その間、年金制度も確立し、多くの国民の老後はほぼ安定してきている。なのに、なぜ国民にとって老後が不安なのか。それは国が国民とともに国民の老後にいたる一生涯に対して責任を負うことを宣言していないからである。いま国民は、老いて健康で文化的な生活を営んでいくのに、この国に生まれてきて本当によかったと思いたい。それは、もちろん単純な、受け身の存在としての国家依存の表明ではない。

憲法第25条第2項では、国の責務として、すべての生活部面において社会福祉、社会保障、および公衆衛生の充実を規定している。すでに遅きに失するが、喫緊の課題として国は、わが国における社会保障の基本理念および基本枠組を明示して、すべて国民が誇りにできる「社会保障基本法」をただちに制定すべきである。ただ、このように書いたからといって、あたかも国の責任によってすべて老後が不安でなくなることを期待しているとでも主張しているかのように理解されてはならない。

そのように考えてしまうこと自体が依然として国民は国に対して要求だけしかしない依存型国民であるという認識に立っているからであろう。むしろ今日、ほとんどの国民は国の政策が明確であって納得できれば、それに十分に協力的であり、かつ率先してその政策のために納税はもちろん、さらに多様な参画と協働に対して否定的ではない。通常では、積極的に参画するとき、はじめて自らの生き甲斐さえ見いだせるものと考えている。それが可能になるような社会保障システムを宣言することこそ社会保障基本法の理念であるべきである。

また雇用保障という点では、若年労働者たちにとっては、ただ単に最低限の社会的セーフティ・ネットを保障するだけでなく、そこに落ち込んだとしても、ただちに再チャレンジができる、社会的アクティヴ・トランポリンの機能が内蔵されているような社会保障システムでなくてはならない。そのような理念が実現されている場合に限って、それは消費税率の引き上げの前提にもなり、また内需拡大化の前提にもなるはずである。

 
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No.6
(2009年度春号)

家族の多様化とその後の社会のあり方

2009年度春号

【質問】

家族の多様化が進んでいると言われているが、今後の家族は、どうなっていくのか。

・日本の家族は、もともと多様な家族であった。長男が家の跡を継ぐという「家」制度は、武士のやり方で、ばらばらだった庶民の家族を明治政府が統一させようとして、それまでの武士のやり方に揃えたもの。

・「家」制度には批判もあるが、家を継がない次男や三男たちが都会に出て、貴重な労働力となって日本の近代化を支えたという側面もある。庶民にとっては、いずれにしても跡取りとか何々家代々の墓を守るという考え方は、明治以降に盛んになったもので、それほど古いものではない。

・高度経済成長期には、急速に産業化が進むなかで核家族化が進行した。良妻賢母という言葉があるが、夫が外で働き、妻が専業主婦として家庭を守り、子どもを育てていくという生き方は、実質的には高度成長期になって一般化するようになった。

・核家族化が進む一方で、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんは長男夫婦が見るものというのが行政的な前提であった。1970年頃までは65歳以上のいる世帯の7〜8割が3世代同居だったが、1980年代には5割に、2000年には25%、そして2005年には20%程度になっている。核家族化の時代と言われていた頃は、家族の画一化であったといってもよかった。その核家族が今日、ライフスタイルについて多様な選択をしはじめた。これが家族の多様化と言われるもの。

・最初に私が多様化を指摘しはじめた頃は、いろんな問題が起きていることを核家族化、つまり家族の画一化の影響だ、と説明されていた。最近になって、やはり家族が多様化しているから、と説明されることが多くなった。今日では、家族のなかの個人が非常に尊重されるようになってきた。それぞれのライフスタイルが重視されればされるほど、家族が多様化していくのは、当然の流れ。

・家族で話し合って、好みのライフスタイルで生きようとする傾向が進み、家族のあり方はますます多様化していくことになる。こうした家族を、私は「合意制家族」と呼んでいる。

・家族が縮小するというのも一つの方向。だが、必ずしも縮小とはいえないケースもある。一緒には住まないけれども、近所に住んでしょっちゅう出入りしており、関係性は3世代同居のような家族もあり、いろんな形が出てくる。もはや、家族とは、こういうものだと、国が制度で縛ることはできなくなっている。

【質問】
そのような家族が今後、人生の中でさまざまなリスクに直面すると思うが、それに対して国や地域社会は何を為すべきか。

・そのような家族が進行していけば、一方で従来にはない問題も起こってくる。今日、子どもたちが離家していって高齢者夫婦だけで住んでいる世帯も20%を超えている。こうした人たちは、ゆくゆくは一人暮らしになっていく。そういう問題は必然的に起こってくる。老々介護という問題の発生やお互いが認知症の認認介護という言葉も使われるようになった。

・また一人暮らしのお年寄りも20%ぐらいいるし、これからはもっと増えてくるだろう。そうなると、合意制家族だからいいよ、とも言っておられなくなる。 長男が跡をとって、老後の親の面倒を見るというのは、それなりに賢い制度であったのかもしれない。だからといって、今はそういうことはできない状況になっている。その時にどうすればいいのかということになる。

・個々の家族で助け合っていくというのも重要だが、それだけでは難しい。介護保険制度などのあり方を根本的に検討し、さらに充実させるとともに、やはり地域ということを重視して、そこで介護の問題および保育の問題などを地域の問題として社会化させていくということが重要ではないか。

・その時の担い手や援助の相手は誰かといえば、必ずしも自分のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんではなくて、地域のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんの面倒をみるというあり方でも良いのではないか。

・昔だったら、義理の姉さん(つまり兄嫁)がみてくれているということであったが、そうではなくて、自分のふるさとでは地域の人たちが面倒をみてくれているということになれば、一方、ふるさとを離れた自分はこの地域の人たちの面倒をみようというようなシステムが必要となってくるのではないか。

・そういう形で高齢化に伴う問題を解決できれば、東アジアのなかでは先端をきっていくモデルの国になるし、多くの国からアジアの高福祉国家として尊敬されるのではないか。


 
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No.5
(2008年度冬号)

規範意識としての公共マナーについて

  21世紀の日本人の生き方を考える−いま問われる規範意識とは−と題するシンポジウムが開催(2月20日:於クラウンプラザ・ホテル神戸)された。コーディネータ−として登壇者には、一応、電車の中や図書館など公共空間における規範意識、すなわち公共マナーを論じ合いたいと呼びかけておいた。しかし3人のうち誰も公共マナーに直接触れた登壇者はいなかった。

  玉岡かおるさんは、自らの小説を題材にして、明治期の近代化のなかで諸外国に囲まれながら日本人が前向きに生き抜いた姿勢、すなわち極貧の農夫たちであってもズルをしない、嘘をつかない、約束を守る、それによって得た信用を基礎にして財をなしていったことを語った。中央大学の山田昌弘さんは、できちゃった婚で多くの男性が結婚手続きをするという規範重視の強さ、また借金を返すために自殺までする日本人という国民性を、規範意識の強さとして論じた一方で、グローバル化で日本人の生活が世界並みになってきているにも関わらず、それに規範が伴っていないとも語った。最後に、京都大学の山極寿一さんは、霊長類の研究から規範のまえに作法を重視する。人間は食卓を囲んで楽しく仲良く食べるが、サルは食物には緊張して取り合いになると指摘。互いに分け合って食べることができない。要求すると、ときに分けてくれる場合があるが、要求しなければ決して分けてはくれない。サルには人間に備わっている共感がない。共感は体験をとおしてしか分からない。豊かになった現代、個食では共感は学べない、と語った。

  幸いにして文部省の科研の補助を得て、筆者は、今年からこのテーマの研究を開始した。とりあえず面接をとおして、島根県隠岐の島町(農村部)と神戸市(都市部)の比較調査を行なった。調査ならびに分析は、これからであり、とうぜん結論には至ってはいないが、中間的に分かってきたことがある。それは、まず時代の変化によって、特定の人間ではなく、誰でも自由に出入りできる空間、いわゆる公共空間といわれる場所が拡大してきていることである。電車の中もその1つ。

  隠岐の島町には電車はないが、隠岐の島町でも神戸市でも、その空間において公共マナーが保全されている第1の要素は、人びとがその空間にプライド(誇り)を抱いているということである。そういえば、米国に滞在していたとき、大都市のなかを歩いていて極めて汚い街区を発見して驚いたことがあった。思えば、そこに住むことに誇りを持てない人びとの街区であったのかもしれない。いま規範意識が問われるのは、じつは世界に向かってわれわれ日本人が今日、誇りを持てない国民になりはじめているからかもしれない。


 
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No.4
(2008年度夏号)

共生社会づくり政策の研究という課題

  グローバル化が進む今日、多様な文化、そして異質な人びとが同じ空間に、それも共時的に生活をともにする時代になってきている。こうした時代に、さまざまな不安やリスクも予想される。もちろん日本人にとって安全・安心といえば、すぐに地震や洪水など、自然災害を思い浮かべる。

  しかし、今日の自然災害は、必ずしも単純に「天災」とはいえないところに不安がある。ごく最近のニュースでは、灘区の都賀川の河川災害(7月28日)や豊島区の下水道災害(8月5日)など、安全・安心の概念のもとに、むしろ防災や減災を意図した護岸整備など管理体制による、意図せざる結果としての「災害」であった可能性なしとはいえない。安全・安心な社会づくりという名のもとに知恵をしぼって、「科学的」に保証された人工的対策がけっきょく新たな災害を呼ぶことになる。そして、その災害への対策がさらに新たな災害を呼ぶことになる。

  安全・安心への配慮は、一旦それが昂進しはじめると、完璧を求めて拡大するしかない。 たとえば、一旦、敵対する集団が確認されると、第1に、安全・安心な社会づくりが異質性をもつ「他者」全体へと及んでいく。第2に、危険と考えられる、あらゆる空間が監視や管理の対象とされ、今日では、すでに監視カメラの設置が当たり前の社会になってきている。そして第3に、管理体制や管理強化を必要悪として認める意識が増幅され、恐怖観念が蔓延していく。

  安全・安心な社会づくりという名目のもとに他者の侵入を拒絶するためのゲートを設置したコミュニティやまるで要塞と化したマンションなど、行き着く先は、希望のもてる社会とは、ほど遠い。そこで異質な人びとが同じ空間、それも共時的に共生・共存していくことが可能な共生社会づくりのあり方を究めることは、今日、喫緊の課題となっている。

 
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No.3
(2007年7月)

「家族の日」の制定について

  国は、今年の11月第3日曜日を「家族の日」とすることを決定した。それは教育再生会議の第1次報告(1月発表)での「家庭の日」の活用という提言を受けてのことである。青少年の非行や犯罪をはじめ、さまざまな今日的な社会不安を「家族がちゃんとしていないからだ」とばかりにその責任をとりあえず家族に転嫁し、家族の団らんやきずなに訴えることによって何とか解消しようと画策しているようにも窺える。多くの地方自治体においても、とくに21世紀に入ってから家庭での週末の過ごし方や家族の団らんや家族のきずなが話題になり、家庭の日が検討されてきている。朝日新聞の記事によると、6月末現在、兵庫県と大阪府をのぞく、すべての都道府県に「家庭の日」があるらしい。

  「家庭の日」があることで、そこに多様な家族ライフスタイルを支援する行政サービスが施行されていると判断するとすれば、それは大きな誤りである。加えて、「家庭の日」によって家族の自己責任を強要するようでは本末転倒である。すでに兵庫県でも、ひょうご家庭応援施策検討委員会によって県民一人ひとりが自らの家族や家庭について考える契機として、あるいは家族がともに食卓を囲むなど、共通の体験をもつための契機として、県民全体が主体となる啓発事業を展開できないかと考え、「家庭の日」や「家族団らんの日」等の制定が検討されてきた。

  その結論では、行政が年に1回のみの特定の日を指定するのではなく、むしろ「それぞれの家族が話し合って、その家族に相応しい日を取り決めてもらえるように支援していく方が望ましい」ということになった。それはたとえば、その夫婦(父母)にとっての結婚記念日(加えて銅婚式や銀婚式)や家族それぞれの誕生日(加えて古稀や喜寿や米寿)や家族固有の記念日などをそれぞれのオリジナルな家族文化として、その日を応援する施策である。このことは行政が講演会や作文・絵画のコンクールなど、さまざまなイベントを実施して、県民に家族や家庭を一緒になって考えてもらう契機にしてもらう、さらに協賛店舗や文化施設を利用する際の優待割引制度を実施するなどといった多様な家庭応援施策を不要なものと主張しているわけでは決してない。むしろその逆であって、多様な家族ライフスタイルを無視することのない応援施策が不可欠と主張している。

  今日、家族を持ちたいと思っていても持てないで悩んでいる人びともいるだろうし、あるいは家族という存在のために苦しんでいる人びともいるだろう。多様化する家族の時代にあっては多様なあり方が保全されなければならない。家族を築こうとして主体的に選択された多様な「家族ライフスタイル」を尊重し支援することこそ行政の今日的な課題である。いま行政にとってはこのことをしっかりと認識することによって、手段としての家族施策ではない目的そのものとしての家族支援施策の展開こそ最も重要である。

 
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No.2
(2007年3月)

課題としての家族の位置づけ

  研究所の課題は、第一に家族を定義づけることから始まる。それは簡単なようで実はなかなか至難の業である。形態という点からしても核家族の形態もあれば三世代同居の拡大家族の形態もある。また母子家庭のように一人親家族の形態もある。加えて兄弟姉妹だけの家族もあり、最近では同性愛カップルも家族であると主張されている。さらにペットも家族という説もある。一方、家族と世帯は同じではないから同居していることが前提ではない。欧米で三世代家族といえば三世代同居の世帯ではなく、たいてい既婚の息子夫婦や娘夫婦の世帯と祖父母の世帯が近居して頻繁に接触しあい相互作用している家族のことである。

  ここで問題は、外部から形式を重視して家族を定義づけることの限界である。それだけ今日、家族が多様化しており、かつ主体的選択の対象になってきているからである。そこで「家族を互いに家族と認知しあっている人びとの集団」とまず定義し、つぎにその関係性を重視して(1)関係の排他性と永続性、(2)情緒的および財政的な関わりの強さ、(3)日常生活における対社会への家族としての表出性、そして(4)日常的サービスに対する相互の信頼性を問うことが重要となる。

 
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No.1
(2006年12月)

イギリスのラウンドアバウトについて

  ラウンドアバウトと言われて、すぐ何のことか分かる人は少ないかもしれない。以前から言葉は知っていたが、私も実体が何なのかは熟知していなかった。イギリスで生活してみて、それも実際に車の運転をしてみて、このことか、と分かった次第である。

  ラウンドアバウトとは、信号機のない十字路のことで、その真ん中に小さな土俵があるようなもの。車は、すべてその入り口で一旦停車して、右から来る車を確認して、車が来なければ、そのラウンドアバウトに入る。まっすぐ行く場合ならば、土俵を時計回りに回りながら、そのまま進む。左に曲がるにしても、同じこと。ただ右に曲がっていく場合には、左から入ってぐるりと土俵を回って右に出ていくことになる。ラウンドアバウトに入るときは、日本での高速道路に乗り入れるときと似ている。

  このようなシステムは、信号機があって権威的にストップさせたり、進行させたりして、一方を通し、他方を制止するというやり方ではないので、極めて自主的というか自律的に事を処理することが期待される。自主を重んじるイギリスならではのこと、と感心してしまう。十字路に信号機がないなどと聞いて、交通事故の心配をしてしまうのは、権威に依存することを前提に生きてきている日本人には、当然のことかもしれない。

  しかし、やはり矛盾もある。それは渋滞である。信号機があれば、それなりに処理されようが、自主的とくれば、われ先にとなる可能性がある。と、考えてしまうのは日本人。実際は、誰もが慎重になって中なかラウンドアバウトに入らずに様子をみて、ゆっくりと侵入する。そのことが実は、渋滞を招いてしまう。権威的でないとは、そこに必然的にコストが生じることになる。自律とは依存の反対というだけでなく、また自分さえ良ければ、それでよいと考えるような利己主義とも異なる。まさに人びとが互いに相手を尊重し、相手の立場になって物ごとを考えることという方が正しい。コストは覚悟の上でなくてはならない。

 
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