淡路会議声明 2008

2008年8月2日(土) 第9回アジア太平洋フォーラム・淡路会議

第9回アジア太平洋フォーラム・淡路会議は「どうなる?アジアの水資源」をテーマとして、2008年8月1日と2日の両日、淡路夢舞台国際会議場及びホテル・アナガにおいて開催され、活発な討論が繰り広げられた。

人は水なしに生きることは出来ない。人の生存を支える主な要素として、空気・水・食糧がある。そのうち空気は、万人に対し制約なく与えられる公共財である。他方、食糧はその確保のため、人類が知恵を絞って歴史上様々な形態の経済社会を築いてきたところであり、社会における主要な商品である。水はその中間にあって、理念において万人の生存のために与えられるべき公共財でありながら、実際には社会が関与してはじめて安全にして十分な量を提供しうる基本財であり、商品である。

現代社会にあって、水は何のために使われるか。第1に人々の飲料水・生活用水であり第2に農業用水であり、第3に工業用水である。そのうち飲料水が安全性と質に敏感であり、農業用水が最も量を要し、全体の60%以上を占める。人々の生存と社会活動のために不可欠な水を、どこから調達するのか。地球に存在する水の圧倒的部分は海水であるが、人間を含む生物の多くは、海水を体内で利用する術を持たず、淡水を求める。そこで、伝統的に、河川・雨水・地下水の3種類が利用されてきた。

「天は悪人の上にも善人の上にも雨を降らせる」との言葉に反して、地球上の淡水は偏在性を特徴としている。モンスーン地域と砂漠地域というように降雨の空間的偏在は顕著である。モンスーン地域にあっても、雨期と乾期という時間的偏在が存在する。文明社会の成立は、こうした偏在性を克服する営みと表裏をなしてきた。家庭内で雨水を貯蔵することに始まり、溜池と水路の建設によって村人の生活と農業生産を可能としてきた。こうした雨水の有効活用という古来の知恵が、今日も新たな装いをもって展開されているシンガポールの事例が本会議で報告された。シンガポールという都市国家を載せている小さな島は数個の流水域から成るが、その1つの河口にマリーナ堰を建設して、通常スコール後、約20~30分で海に流れ去る流域の雨水を貯蔵し、有効利用するプロジェクトである。

古代の四大文明はいずれも巨大河川の流域に成立した。河川の水を灌漑設備によって生活用水と農業用水に活用することにより、農耕文明が可能となったのである。地球上に偏在する水資源が、人類の文明にいかに本源的意味を持つかを示すものである。

「水を治める者が国を治める」との言葉は古来の真理であり、今も変わることなく真理である。水を治め、文明社会に必要な水を調達するために、統治能力が不可欠である。それも狭い意味の行政(administration)では不十分であり、地域の水資源と社会の必要を結び合わせる広義の経営管理(management)能力がなくてはならない。それは一方で絶えず新たな技術的解決を達成し、他方で人々に新たな認識をもたらしつつ支持と協力をとりつけるものでなければならない。なぜなら、水資源の問題は、しばしば一つの地方自治体や一つの国家で解決出来ない拡がりを持つ。のみならず、今日の社会と自然の急激な変動の結果、地球的な挑戦という様相すら示しているからである。その意味で、水問題への対処には地域と国のガバナンス、さらにはグローバル・ガバナンスを必要とする段階に近づいていると言えよう。

今なぜ水資源は地球的に深刻な問題となっているのか。根本的な理由は、水をめぐる需給バランスの逼迫である。世界の人口は20世紀中に約4倍に増えた。膨張した人口のための生活用水だけでない。その人口を養うための食糧生産に大量の水を要し、工業化がさらに多くの水を要求する。食生活の向上と肉食への嗜好変化が、一人当りの水消費量を増大する(食肉用動物の飼料となる穀物生産のために多量の水を消費している)。とりわけ中国・インドをはじめとするアジアの人口増加と急激な工業化が、水需要の増加を加速している。それをまかなう水の供給は容易なことではない。

また、水の有効利用と食糧増産のための社会的努力がかえって水をめぐる事態を悲惨にするケースも稀ではない。60年代におけるソ連の農耕地造成のための自然改造がアラル海を干上がらせた。「緑の革命」による食糧増産のための水の大量利用がインドやバングラディシュにおいて井戸の水質悪化をもたらしている。オーストラリアにおける地下水を利用しての米作は注目を集めたが、地下水の涸渇と塩害を招来し破綻した。サウジアラビアも地下水を汲み上げて農業を行ってきたが、水位が低下し、2016年に終了すると発表した。地下水の大量利用は地球上いたる所でその枯渇や水質有害化、陥没等の弊害を招いているのである。持続可能性を視野に入れ、技術の方向を誤らぬことが肝要である。

加えて、水の暴動ともいうべき大自然の変調が今日の地球を襲っている。異常気象が多雨と少雨の両極化をもたらし、一方で集中豪雨や熱帯性低気圧による暴風雨が大きな被害を出せば、他方で干魃・河川や湖沼の干あがり・砂漠化が進行している。北極圏や高山における氷の融解に示されるように、異常気象の背後で地球温暖化という大規模な気象変動が進行していると見られる。これまで高山に積もっていた雪は、温暖化の結果、降雨となって一気に流れ下り、例えば天山山脈の麓に点在するオアシス都市を通年的に潤すことを止めようとしている。地球温暖化は地域の植生と作物をシフト(北半球では暖かい地帯が北上する)させ、これに人間社会がついて行けず、混乱を生じ始めている。さらに海面上昇による水没地が地球的に広がる事態が憂慮される。人類社会に対する水の反乱という表現もあながち誇張ではあるまい。

水が御し難い事態にあればこそ、今日われわれは水資源問題に正面から向き合い、従来よりも高い水準のガバナンスをもって対さねばならないのである。2007年12月に日本で開催された「アジア・太平洋水サミット」が、「水の安全保障」を論じ、リーダーシップと責任を強調したのは理由のあることである。どのような対処がわれわれに可能であろうか。

水問題は、まず基本的に流水域単位で対処されるべき性格を持つものである。人類は昔より、自然の懐に抱かれて水とまどろんで文明を形成してきたが、その精神は今後もよきガバナンスとして活かされねばならない。先述のシンガポールにおける流域内雨水の有効利用の成功例に見るように、流域内の責任ある様々な関係者による流域統合管理が不可欠である。が、その実現は容易でない。「ライバル」という言葉は「リバー」(川)をめぐって向き合う者の意だという。一国内でも水争いが絶えないことを思えば、国際河川の流域ガバナンスの困難は察しえよう。メコン川の国際管理に上流の中国は加わっていない。チグリス・ユーフラティスの上流にあるトルコは下流をはばかることなくダムをいくつもつくっている。水を共同で治める、共同で利用する民度に国際社会は早くたどり着かねばならない。

その点で、本会議で報告された中国の南水北調プロジェクトは驚嘆に価しよう。揚子江の豊かな水を人口増と工業化、そして砂漠化が進む華北へ水路や運河を3本設けて大量に提供する計画である(今のところ上流は見合わせ、中流と下流に各1本開鑿するとのこと)。一流域内でも経営管理が容易でないというのに、何百キロも離れた黄河流域に揚子江の水資源を分与する決定は、強大な一つの政府なくしてありえない。高度なガバナンスのモデルとして称讃する想いとともに、三峡ダムや南水北調のような中国の巨大な自然改造の試みが揚子江流域の自然変調をもたらしはしないか、自然の懐を脅かすものではないのかとの危惧の念も禁じ得ないところである。

世界的に重大化する水資源問題については、技術的解決・市場的解決・社会的解決の三者による複合的対処の必要性が、本会議の討議を通じて浮き彫りとなった。

あらゆるケースについて技術力が肝要であることは言うまでもないが、とりわけ近年のめざましい進展は海水淡水化の技術である。日本が開発をリードしている逆浸透膜による水純化の技術が今では利用可能となり、とりわけ中東など海岸沿いの乾燥地帯において重宝されている。先に水の供給源として、河川・雨水・地下水のみをあげたが、今では海水も技術の発展によって加えられることとなった。問題は、コストと、真水を取り出した後の海水の塩分濃度の上昇にあると思われる。

市場的解決を語る場合、ヴァーチャル・ウォーター(VW)という概念が重要であり、会議におけるキータームの一つとなった。ドバイなど中東の乾燥地帯の巨大都市はいかに水を調達するか。飲料水はともかく、食糧はほぼすべて輸入に頼る。農作と牧畜に必要な莫大な水を、食糧輸入によって代替しているのである。実は食糧という形で大量の水を輸入しているに等しい。このように世界各地は市場貿易の恩恵に、経済力さえあれば浴することができる。国際的な市場経済システムの利用である。

VWは日本についても言えることである。モンスーン地域に位置する日本にとって水は潤沢であると見えるが、食糧自給率の低い日本は食糧輸入という形で、実は大量の水を輸入しているのである。食糧と水の安全保障という観点を、日本人は今後の国民生活の中に組み入れて再編せねばならないであろう。

社会的解決とは、一言で言えばガバナンスの問題である。一流域における統合的管理能力を可能にする政治がなければならない。のみならず流域を越える複数の流域間の調達、さらには国際間の合意、そしてグローバルなガバナンスなしに、地球的な気候変動と表裏をなす水問題に対処することはできないのである。

その際にきわめて重要なことは、国と地球に起こっていること、起こりつつあることの正確な認識である。洞察力に富む科学者・専門家の分析と警告が社会的対応をリードしなければならない。しかも科学的認識を一部エリート層の専有物に留めてはならない。社会教育こそが重要である。持続可能な水資源についての認識が、市民の理解するところとなり、水の安全保障に沿った社会生活の革命を伴うものとならねばならない。地球的な気候の変調が人類に共通の試練を課そうとしている今日、新たなレベルの認識と協力の水準を国際社会が達成することによってこそ、はじめて水資源をめぐるガバナンスは可能となるであろう。

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