第10回アジア太平洋研究賞(井植記念賞)受賞者 麻田 雅文(あさだ まさふみ) 氏

論文タイトル「中東鉄道経営史 -ロシアと「満洲」、1896-1935年-」

写真 麻田 雅文 氏
麻田 雅文

【略歴】

2003年学習院大学文学部史学科卒業。2006年北海道大学大学院文学研究科歴史地域文化学専攻修士課程修了。2010年北海道大学大学院文学研究科歴史地域文化学専攻博士課程を単位取得後退学。大学院在学中の2009年7月より翌年3月まで、日露青年交流センター日本人研究者派遣事業にてサンクトペテルブルグに留学。2010年4月より、日本学術振興会特別研究員(PD)として、首都大学東京人文科学研究科に所属。2011年3月、北海道大学大学院文学研究科にて博士号取得(学術)。

【要旨】

中東鉄道経営史 -ロシアと「満洲」、1896-1935年-

日本では東清、東支鉄道とよばれた中東鉄道は、中国東北(満洲)を横断したシベリア鉄道の短絡線であった。1896年に露清銀行と清朝の間で結ばれた契約によってロシアが創業し、1935年にソ連が「満洲国」に売却して、その歴史に幕を閉じた。

中国とロシアにおける先行研究では、中東鉄道が敷設地域へ及ぼした経済的な影響とその歴史的役割を肯定するか、否定するか、が争点になりがちだった。そのため、会社の経営の内実までは研究が進んでいない。そこで本論は、その組織構造、鉄道事業の収支と貨物の分析、港や汽船会社と連携した「三位一体」の経営戦略、会社の社有地(収用地)という植民地形態、鉄道運行のための燃料、沿線を警備した軍隊、に各章を当てて、中東鉄道の経営史を明らかにした。その上で本論は、地域史研究として中国東北のみならずロシア極東を含みこんだ、「跨境領域」を形成する主体としての中東鉄道、という新たな歴史像を提示し、20世紀前半のロシアと東北アジアとの関係を解明することを目指した。また中東鉄道にはロシアのみならず日中米仏も深く関与したことから、東アジアの国際関係史を描く側面も持つ。

結論は次の二点である。ロシアが優位を占めた1917年までの中東鉄道は、単に利潤を上げるべき「株式会社」ではなく、領域支配の道具であり、地政学的な優位の確保という、金銭では換算できない魅力を持った「植民地化会社」であった。「植民地化会社」とは、商業的な利益のために設立された会社が、特定の国家と結びついて、ある領域の支配を行っていた会社と定義される。その範は欧州各国の東インド会社に求められる。「植民地化会社」としての性格が変わったのは、1920年代の中国による利権回収運動の結果である。中国側は軍事的優位を背景に中東鉄道の幹部に中国人を送り込み、武力を用いても中国側が設立した機関に権限を移譲させた。性急な利権回収は1929年に奉ソ紛争で奉天軍閥が敗北したことで挫折する。しかし、「満洲国」が成立すると、ソ連の影響下にある中東鉄道への圧迫は続いた。「株式会社」としての中東鉄道は1920年代に利益をあげていたが、それにもかかわらず満洲事変後にソ連が早々に売却を決意したのは、「植民地化会社」としての有用性が乏しくなっていたことが重要であろう。

この鉄道が中国東北のあらゆる産業の一大基盤となり、東アジアの域内だけなく、ヨーロッパとアジア間の移動の利便性を向上させたことは否定しようがない。しかし問題は、鉄道の敷設に付随して、様々な利権がロシアに譲渡され、ロシアの半植民地が沿線に築かれたことにある。中国はそれを取り戻すのに、多大な時間と労力を割くことを余儀なくされた(「罪」)。一方で帝政ロシアは鉄道に付随する利権の拡張に走り過ぎたため、鉄道事業の収益があがっても、付帯事業の維持費が嵩み、それが国庫を圧迫した。1924年からの中ソ合弁下では経営は黒字に転じていたが、経営の主導権争いで両国関係は極度に悪化した(「罰」)。ここに、中東鉄道の「罪と罰」を見ることができる。

このように、単なる鉄道会社としては割り切れない、経営と国際政治の入り混じったダイナミックな歴史があるからこそ、中東鉄道の研究は今後ともさらなる可能性を秘めている。今後書かれるべきは、満鉄のみならず中東鉄道を組み込むことで、ロシアという地域の主要なアクターも視野に入れた、日本史、東洋史、西洋史を横断する跨境的な東北アジアの近現代史である、と最後に提言したい。

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