第19回アジア太平洋研究賞(井植記念賞)受賞者 海野 典子氏

論文タイトル「新月と満月の下で:北京のムスリムの矛盾と一貫性 1906-1913」

写真 海野 典子氏
海野 典子

【略歴】

専門は中国・中央ユーラシア近現代史、イスラーム地域研究。2010年、東京大学教養学部卒業。2012年、同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程修了。同博士課程在籍中、日本学術振興会特別研究員DC1、ハーバード・イェンチン研究所客員研究員に採用される。2017年、博士号(学術)を取得。日本学術振興会特別研究員PD(2017年~2020年)に採用中、台湾国立政治大学やウズベキスタン共和国科学アカデミーで在外研究を行う。現在、中央大学政策文化総合研究所客員研究員、及びコロンビア大学ウェザーヘッド東アジア研究所客員研究員。

【要旨】

 
 約2300万人のムスリムが暮らす中華人民共和国最大のムスリム集団で、1100万の人口を擁する回族という少数民族は、7世紀中葉以降来華した西アジアや中央アジア出身のムスリムの末裔とされる。ムスリムに対する偏見や暴力、食習慣の違いをめぐる非ムスリムとの衝突が深刻な社会問題となっていた20世紀初頭の華北地域において、回民(回族の歴史的呼称)は非ムスリムとのかかわり合いのなかで、いかにして信仰を保持することができたのか。
 先行研究は、近代回民社会で流行した「愛国愛教」(国を愛することは宗教を愛すること)というスローガンに着目して、回民が国家への忠誠心を誓いその庇護を受けることによって信仰を守ったと論じる。一方、本論文は、「一見教義とは矛盾しているが、イスラームの存続を目指すという点では一貫している」(contradictory yet coherent)回民の宗教実践が、中国社会でイスラームが生き残ることができた重要な一因であったと結論づける。たとえば、北京のある宗教指導者は、賭博行為として教義で禁じられている宝くじをモスクで販売し、その利益を宗教学校の運営や貧民救済のための資金とした。別の宗教指導者は、辛亥革命期に反イスラーム的と認識されていた辮髪を敢えて維持することによって、辮髪切除を拒む年輩の回民との対立を回避し自身の面子を保った。また、回民知識人たちは、回民の祖先は預言者ムハンマドが中国に派遣したアラブ人であるという根拠のない民間伝承を「史実」と見なして、中国イスラームの伝統を主張した。
 本論文は、回民の定期刊行物や公文書、及び回民の政治利用を目論む日本軍部・オスマン帝国やキリスト教宣教師が残した史料を用いて、教義に反すると一部の回民が厳しく批判したこれらの行動が、ムスリム社会の安定と存続に大きな役割を果たしたことを明らかにした。「愛国愛教」や「敬虔」「非敬虔」という二項対立の図式に集約され得ない、中国の現実に適応した回民の柔軟なイスラーム解釈や実践――「矛盾した一貫性」――こそが、信仰の維持や非ムスリムとの関係構築に寄与したのである。
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