第20回アジア太平洋研究賞(井植記念賞)受賞者 長岡 慶氏

論文タイトル「ト現代ヒマーラヤ世界におけるチベット医学の制度化と病気治療―インド北東部タワンの暮らしと病いの民族誌―」

長岡 慶 氏
長岡 慶

【略歴】

専門は医療人類学、南アジア地域研究。博士(地域研究)。2010年、早稲田大学教育学部卒業。同年、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程(5年一貫制)入学。同年より、インド北東部のヒマーラヤ山脈地域で断続的なフィールドワークに従事。2019年、同博士課程修了。現在、日本学術振興会特別研究員(CPD)。2021年、春風社より単著『病いと薬のコスモロジー―ヒマーラヤ東部タワンにおけるチベット医学、憑依、妖術の民族誌』を刊行。

【要旨】

 
 本論文は、インド北東部タワンの事例を通して、チベット医学の制度化が進展する現代ヒマーラヤ世界における人々の病いの経験と医療実践を論じ、医療と身体の複層的な関係性を明らかにするものである。20世紀後半以降WHOの推進するプライマリ・ヘルスケア政策を背景に、チベット医学は中国とインドで専門資格化や薬の大量生産が本格化した。これまでの研究では、現代の伝統医療がナショナリズムやグローバル化と結びつき、文化の象徴や固有資源として再構築され、拡大する状況が活発に論じられており、とくにチベット医学研究では制度化の担い手である専門組織とチベット・アイデンティティとの関係が多く分析されてきた。しかし、一方で地方のヒマーラヤ地域におけるチベット医学の諸実践や病気を患う側の生活者の視点については、制度化の「周縁」とみなされ十分にとらえられてこなかった。そこで本論文は、制度の中心/周縁ではなく、ヒマーラヤ地域の人々とチベット医学が新たに出会う場としての接触領域(コンタクト・ゾーン)に焦点をあて、タワンでのフィールドワークをもとに地域の歴史や、病いをめぐる治療者、専門組織、政府、村人の相互交渉について民族誌的記述を通して描き出した。タワンの住民は、インドによる国境開発の影響のもとチベット仏教徒として高地で暮らす人々である。病いは「ナツァ」「ヌパ」「ドー」と呼ばれ、制度化されたチベット医学が主にナツァの治療・予防を担う医療として実践される一方、ヌパやドーの治療・予防では僧や神降ろしの儀礼のほか宗教薬や民間薬が重要な医療を担っていた。ナツァ、ヌパ、ドーでそれぞれ異なる複数の身体が経験されていたことから、本論文は制度化されたチベット医学と人々の日常が出会う場で、医療実践は知の体系や制度の枠組みによって区別されていくのではなく多様な治療者や薬が互いに重なりながら共在し、複数的な身体とともに病いが生きられていくことを明らかにした。
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