第20回アジア太平洋研究賞(井植記念賞)受賞者 南波 聖太郎氏

論文タイトル「ラオスにおける社会主義と中立主義の相克:デタント期社会主義陣営の最辺境における解放区の多元的展開(1945-1975)」

写真 南波 聖太郎氏
南波 聖太郎

【略歴】

専門はラオス地域研究,ラオス現代史。2010年,東京外国語大学外国語学部東南アジア課程ラオス語専攻卒業。2012年,同大学院博士前期課程修了。2018年,同大学院博士後期課程単位取得満期退学。2020年,博士号取得。日本学術振興会特別研究員DC2,国立国会図書館非常勤調査員,日本貿易振興機構アジア経済研究所リサーチ・アソシエイト,外務省専門分析員などを経て,2021年よりアジア経済研究所研究員。

【要旨】

 
 ラオスは現存する社会主義国家の1つである。しかし,マルクス・レーニン主義を標榜するラオス人民革命党がいかにして現在のような一党制を確立したのかは,十分解明されていない。従来の研究では,第 2 次インドシナ戦争終結後の 1975 年 12 月 2 日に約 30 年続いたラオス王国が解体され,現在のラオス人民民主共和国が成立した(ラオス革命)と同時に,一党制も確立したとされる。しかし実際には,同党以外の勢力,特に愛国中立勢力や中立派を名乗る勢力は,この時点ではまだ閣僚レベルにも存在した。
 本稿では,革命時点でのラオス人民革命党のヘゲモニー確立を自明視しない立場をとった。そして,同党の約 30 年間に及ぶ革命運動について,同党と党外勢力の関係性の変遷を中心に分析した。最終的に,成立当初のラオス人民民主共和国における政治的多元性の実態を再考することを目指した。
 冷戦期の東側陣営では,プロレタリア独裁の実現を目指して政治的多元性を抑制することが,国際的に強制される傾向にあった。一方で,ラオスで社会主義運動が本格化した1950年代半ばには,東西両陣営のデタントが始まりつつあった。そのためソ連や中国,ベトナム民主共和国といった社会主義諸国が,陣営の最辺境に位置するラオス人民革命党にそうした圧力をかけることはほとんどなかった。
 ラオス人民革命党は1960年代初頭には,ラオス王国内に独自の支配地域(解放区)を確保し,革命運動の拠点とすると共に疑似的な国家建設にも着手した。他方で,解放区で一党制が確立することはなく,中立派や愛国中立勢力が終始影響力を維持した。こうした解放区の政治的多元性は,その版図が最終的にラオス王国を覆い尽くしてラオス人民民主共和国が建国される段階に至っても,解消されなかった。結論として,1975年の体制転換時点ではラオスに政治的多元性が残存していたと指摘できる。
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