「アジア太平洋文化賞」 バーナード・クリッシャー氏

写真 バーナード・クリッシャー

バーナード・クリッシャー(Bernard Krisher)
  • 【略歴】

    1931年、ドイツ・フランクフルト生まれ。1941年に米国移民となり、クイーンズ・カレッジ、コロンビア大学そしてハーバード大学で学ぶ。1962年に来日し、ニューズウィーク誌特派員、後に同誌東京支局長(~1980年)。1980年フォーチュン誌東京支局の開設や新潮社編集顧問として「フォーカス」立ち上げや同朋社の「WIRED」日本版立ち上げに関わる。現在、MITメディア・ラボ極東代表及び外交問題評議会メンバー。主な著作・出版物に、『インタビュー~天皇から不破哲三まで』(サイマル出版会)、『ハーバード日記』、『日本に生まれて得か損か』など多数。 1993年にジャパン・リリーフ・フォー・カンボジアを設立。カンボジアに250校の小学校建設を進めるとともに、英語とコンピュータの教師を派遣する国際キャンペーンを展開。無料診療やマラリヤ予防のためカヤを配布するなど地域社会の発展に多大な貢献を果たして来た。また、日刊紙『カンボジア・デイリー』発行人及びホープ・ワールドワイド運営のシアヌーク病院ホープ・センター(在プノンペン)の創設者・会長でもあり、2001年、国際的な慈善活動を称えて贈られるグライツマン賞を受賞。

【活動概要】

1993年に「ジャパン・リリーフ・フォー・カンボジア」を設立し、家族の協力のもと、カンボジアの僻地に小学校250校を建設し、現地に英語教師やコンピューター講師を派遣するためのキャンペーンを国際的に展開している。また、首都プノンペンで一日当たり300人の外来患者の無料診察を行う病院を開設したほか、基金を設立し、マラリアが死亡原因1位を占める地域にカヤを配布する活動も行っている。さらに、ジャーナリストとしての経験を生かして、英語・クメール語併記の初の日刊紙、カンボジア・デイリーを発行するなど、幅広い活動を展開している。

こうした活動を始めた動機についてクリッシャー氏は「素晴らしい配偶者を得、家庭にも仕事にも恵まれて何不自由ない生活を送ってきたことを感謝し、人生の仕上げに社会に何かを還元したいと思うようになったのがきっかけ」と語っている。

クリッシャー氏自身も1930年代後半、家族と共にナチス支配下のドイツからニューヨークに逃れてきた経験を持ち、ポルポト共産勢力によって町を破壊され、知識階級を含み、200万人近い同胞を虐殺されたカンボジアの人達の気持ちが良く分かるという。カンボジアから共産勢力が一掃された後、交流のあったノロドム・シアヌーク国王から国の再建への協力を求められ、僻地に学校を作ってポルポト政権が奪った教育を取り戻そうと決意した。

自身のホームページに屋外で授業を受ける子供達の画像を掲載して、「この子供達に屋根を」と呼びかけると同時に、世界銀行やアジア銀行に働きかけて助成を取り付け、集まった資金を学校建設、コンピュータ講師の給与(首都近郊の孤児院の入所者にコンピュータの技術を教え、彼らが教師となってそれを村の子供達に教えている)、コンピュータ機器、そしてソーラー発電パネルの費用に充てている。

「子供達がコンピュータのスキルとある程度の英語力を身につければ、その知識を村に還元し、村の繁栄に貢献することができる。それがいずれは社会全体を築くことにつながる」とクリッシャー氏は言う。資金は順調に流れ出し、学校建設に資金協力した日本人の数は150人以上にのぼる。

2003年2月時点でこうして建設された学校の数はカンボジア全土で221を数えている。プロジェクトが目標とする250校建設の目処がたったのを機に、クリッシャー氏は現在次なる活動に身を投じている。これは校庭を利用して菜園を作る「ビクトリー・ガーデン」というプロジェクトで、総じて栄養状態の良くないカンボジアの子供達に栄養価の高い食べ物を確保することを目的としている。イスラエルから農業の専門家が駆けつけ、ボランティアで技術支援に当たっている。

また、カンボジアの女性たちが織った毛布やシルクのスカーフをインターネット上で販売し、その収益を医療活動費として還元するなど、支援活動の幅を次々と拡大している。

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