菅原由美氏 受賞論文要旨

19世紀中部ジャワ宗教運動研究

-アフマッド・リファイ運動をめぐる言説-

写真 菅原由美

菅原 由美(すがはら ゆみ)
  • 【略歴】

    1992年、東京外国語大学外国語学部インドネシア・マレーシア語学科卒業。 1996年同大学院地域文化研究科博士前期課程(修士課程)アジア第二専攻修了。同年博士後期課程(博士課程)地域文化専攻入学。オランダ国立レイデン大学 KITLV Visiting fellow(1998.11-1999.2)、インドネシア(ジャカルタ及び中部ジャワ)でのフィールド調査(1999.10-2001.3)を経て、2002年7月学術博士学位取得。現在立教大学非常勤講師、跡見学園女子大学短期大学部非常勤講師。
    東京外国語大学21世紀COEプログラムCOEフェロー。

インドネシアの近代史研究は1970年代後半以降特に社会経済史に関心が集中し、文書館に所蔵されている豊富なオランダ語史料を用いた研究が数多く発表されてきた。強制栽培制度下のジャワ社会については、多くの研究者によって地域的差異まで明らかにされた。しかし、その反面、現地語史料の利用が立ち後れ、オランダ語史料に基づいた歴史叙述がインドネシア史の主流となってきた。

19世紀から20世紀にかけてジャワで頻発した植民地支配に対する抵抗運動について、最初に研究をおこなったサルトノ・カルトディルジョは、これまでの歴史叙述では主体となり得なかった農民に視点を当て、様々な史料発掘をおこなった。そして、植民地社会への再編過程においてジャワではそれを受容した貴族(プリヤイ)と反発した在野の宗教指導者の間に、権力闘争が生じ、それが植民地抵抗運動の背景にあったことをサルトノは指摘した。しかし、彼も現地語史料の利用については消極的であった。そのため、反乱が起きた当時の社会状況について詳細な叙述をおこなっているにも関わらず、反乱を起こした当事者達の思想は明確にされなかった。また、同時期に起きたジャワの再イスラーム化傾向が思想面で抵抗運動に与えた影響についても考察されなかった。

以上の研究史を踏まえ、本論文では、「新しい歴史学」において注目されている歴史叙述手法の一つ、多義的解釈の実践を用いて、ジャワの抵抗運動叙述に新たな視点を提供することを試みた。すなわち、私は、19世紀中葉のジャワにおいて、オランダによってもたらされた様々な変革が現地社会に与えた影響について、現地の人々がそれらの変化をどのように受け止めたのかという問題を、幾つかのあい対立するグループの言説を比較分析することによって明らかにした。この手法をとることにより、ある一つの事件または紛争状況の解釈の幅を広げ、代弁者達の「声」を通して、当時の現地社会の文化的背景を多元的に描写することが可能となる。また、歴史叙述を「事実」の再構成としてではなく、ある特定の観点から表現したものとする立場をより明確に表すことができると考えた。

事例として、19世紀半ば中部ジャワ北海岸、プカロガンで起きたアフマッド・リファイ運動を取り上げた。

この運動は、オランダ語史料だけでなく、リファイ本人が著した本が多数残されているため、抵抗運動の指導者の思想を分析することが可能であり、またリファイが起こした「騒動」について取り扱った宮廷文学が存在するため、これを通して、リファイと対立した現地人植民地官吏や宗教役人の視点をも明らかにすることができた。

19世紀中葉、強制栽培制度の導入とともにジャワは植民地社会として再編されていった。農業では自給作物栽培を犠牲にして、ヨーロッパ市場に提供される商品作物栽培が中心に展開された。現地人社会の長であったブパティは、植民地政庁の官吏となり、強制栽培制度の円滑な推進と社会秩序の監視役となり、次第に植民地政府への依存度を深めていった。また、強制栽培制度の深化は農村に貨幣を浸透させ、農民の間で貧富の差が広がっていった。

同じく19世紀、巡礼者やプサントレンの増加とともに、イスラームはジャワ農村に新たなかたちをとって再浸透し始めた。しかし、プサントレンを指導するイスラーム指導者が増加する傍ら、ブパティは西欧文化を吸収することにより熱心であった。パングル(プンフル)という、マタラム時代からのイスラーム法の専門家を宗教役人として植民地政庁側に取り込み、自分の部下とすることによって、ブパティはかろうじて宗教面でもジャワ社会の長であろうとしていた。

このような時代背景において、アフマッド・リファイは、藍栽培が撤退したプカロガン州バタン県カリサラック村において、村民に対するイスラーム教育を始めた。

リファイは、キヤイやウラマー、ハッジと呼ばれるイスラーム指導者が増える一方で、人々が形だけのムスリムであることを危惧していた。礼拝を行っていても、正しい作法で行っていない。また、義務や禁忌を「正しく」理解していない。そのようなムスリムが多く、またウラマーと呼ばれる人々もその間違いを指摘したり、「正しい」知識を人々に教えようとはしない。

さらに、もしシャリーアに従った生き方をするのであれば、イスラーム指導者が異教徒や異教徒に仕えるプリヤイに従い、任官を願うことは間違っているはずである。にも関わらず、多くのウラマー達がそれを望んでいる点がさらに、リファイの心配を強いものとした。リファイは社会が宗教を忘れ、道徳が荒廃することを危ぶみ、教育活動を始めた。ジャワ語で教科書を書くことによって、イスラームの教えを村民がよく理解できるように考え、また韻文形式や同じ表現の繰り返しは、村民が教科書の内容をよく覚えられるように考えられた結果であった。

信徒は次第に増え、プカロガンを超え、ウォノソボを始め他州の住民にまで影響を及ぼし始めた。

しかし、内容にプリヤイや彼らに従う多くのウラマーを強く批判する部分があらゆる箇所に挿入されていたため、リファイの著書は彼らの強い反感を買った。リファイの思想には、ジャワで最大の抵抗運動となったディポネゴロ戦争(ジャワ戦争)で、ディポネゴロが唱えたような救世主待望思想はもはやまったく見られず、リファイはアラブから取り入れた正統なイスラーム思想による日常生活改善という、地道な活動によって目的を達成しようと考えた。

これは、勿論、リファイ運動が、ジャワ戦争直後、救世主思想によって蜂起したとされる幾つかの小規模の抵抗運動とは、全く性格の異なる運動であったことを示すと同時に、外来の正統イスラームの導入徹底によって社会変革を起こそうとする、メッカ帰りのハッジによる運動が、19世紀ジャワの再イスラーム化の動きに合わせ、登場していたことを意味していると考えられる。

リファイはイスラーム指導者に「本来の」立場を自覚させることを目指していた。すなわち、正しいシャリーアを民衆に伝えるというウラマー本来の務めを思い出させ、また、ウラマーが国の指導者に仕えるのではなく、国の指導者がウラマーに教えを請うという形が正しい形であるとして、イスラーム指導者と国の指導者の関係を正そうとした。

この言説は植民地期以前のジャワにおいて、王と宗教指導者の関係としてしばしば語られているが、同様に中東イスラーム世界にも、ウラマーが王に仕えるのではなく、王がウラマーに知恵を請うことが正しい形であるとする考え方がある。リファイがこの考えに基づいて行動したと考えることはできる。

つまり、リファイはジャワの慣習にも通じる、イスラームの原点への回帰によって社会の浄化を図ろうとしたと言える。

一方、ブパティはリファイの逮捕及び追放をオランダ政庁に要求し、リファイが誤ったイスラームを人々に教え、民衆を自分に従わせていると主張した。

リファイは、知識があるだけでなく、「正しい」ウラマーに民衆は師事すべきであることを常に強調していたが、プリヤイによって、その主張はリファイにのみ師事すべきであると主張しているにすぎないという意味を置き換えられ、不遜な扇動者のイメージが作りあげられた。また、プリヤイはリファイは宗教知識が不十分であるにもかかわらず、何の根拠もなく、プリヤイを批判しており、それだけでなく、政府をも批判しているという説明を試みた。

宮廷文学の上で、プリヤイはリファイを異端ハッジの代表として取り上げ、ブパティやパングルを「正しいイスラーム」を知り、誤ったハッジによる攪乱から社会を守っている存在であり、社会の秩序を守っているという点で植民地政府の厚い信頼を得ていると自画自賛した。

つまり、宗教面においても、政治面においても自分の立場を擁護した。このとき、自己弁護のために用いられた言説は、正統イスラームと異端という、15世紀ジャワにイスラームをもたらしたとされる「九聖人」伝承からすでに存在したテーマであった。

18世紀に執筆 された『チャボレックの書』に登場する異端ハッジ、ムタマキンと正統派ウラマー、クティッブ・アノムの論争をそのままリファイとパングルのハジ・ピナンの論争にあてはめ、正統派の勝利・異端の敗北を強調するとともに、勝利した正統派イスラームを守護するジャワの王として自らの存在を正当化した。

また、「パングルという地位に就いている」ハジ・ピナンを誉めたたえることによって、イスラーム指導者に格付けを導入し、政府に認められたパングルを在野のイスラーム指導者とは別格の存在であると強調した。

このことは、『チャボレックの書』のムタマキンの話において、ウラマーは最も地位の高い人々であると、一様にウラマーを褒め称えていた描写と明らかに変わっている。

これはオランダ政府に認められている宗教役人パングルが仕えているプリヤイの正統性の主張であると考えられるが、それは同時に、プリヤイが増加しつつあった在野の宗教指導者と宗教役人のバランスをどのように保つことができるかという問題に直面していた結果、このような論調が展開されたのではないかと考えることができる。

こうして、ブパティは、新興勢力ハッジによってジャワにもたらされた再イスラーム化の波を内に取り込もうと試みた。現実には、オランダがブパティに加勢し、植民地体制を揺るがす可能性のある反政府的ハッジは強制的に排除された。すなわち、オランダとの協力関係によって、ブパティは不安要素を排除し、社会地位を守った。

植民地政庁はブパティとリファイの確執を知り、また、独自の調査によりリファイが教えているイスラーム教義自体には誤りがないことを知っていた。

しかし、それにも関わらず、リファイは社会秩序を揺るがす存在であるという理由を作り、彼をジャワより追放した。それだけでなく、すぐ後に続いたハッジ条例制定議論において、リファイは「狂信的ムスリム」の代表例として多用さ れた。それには、アジア各地でイスラーム復興運動への懸念があったと同時に、ジャワにおいてブパティの影響力の減少が懸念されていたことが理由として考えられる。

ブパティの、これ以上の影響力の低下は、プリヤイを通して、ジャワ人社会を統括してきた統治システムの崩壊を意味していた。

リファイはアンボンに追放され、プサントレンは解散させられ、著書は没収された。リファイの家族と彼を師事する人々はカリサラック村を離れ、山奥に隠れた。リファイとその信徒達はプリヤイとオランダの言説によって社会に説明され、ジャワ社会において多数派とはなり得なかった。

異端の汚名を被り、閉じられた社会のなかで宗教活動を続けた。アフマッド・リファイ運動は、ジャワの植民地社会としての再編と、同時期に起こったイスラーム化の進展との軋轢によって生じ、プリヤイと政府によって弾圧された運動であったと捉えられる。

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