包 慕萍 氏 受賞論文要旨

モンゴル地域フフホトにおける都市と建築に関する歴史的研究

(1723年-1959年)
-周辺建築文化圏における異文化受容-

写真 包 慕萍

包 慕萍(ぱお むぴん)
  • 【略歴】

    1990年中国瀋陽建築工程学院建築学科卒業。1994年上海同済大学大学院建築歴史及び理論専攻修士課程修了。
    2003年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了(工学博士)。東京大学生産技術研究所博士研究員を経て、現在日本学術振興会外国人特別研究員。

本論文はモンゴル地域(※1)の都市と建築の歴史的な変容の過程を、フフホトを中心に述べるものである。

当初、万里長城は、中華の農耕文化とモンゴルの遊牧文化の境界線であった。しかしながら18世紀から19世紀になると、モンゴル地域における伝統的な遊牧都市と建築は、チベット仏教の導入と清朝の版図への編入に伴い、中華文化が境界を超えて流入、浸透することにより、定住的な都市へと変貌を遂げていくことになる。

更に、19世紀後半から20世紀にかけて、西洋の影響を受けることによって、西洋化と技術の近代化が進んでいく。

以上のことを踏まえつつ、18世紀から20世紀迄のモンゴル地域における都市と建築の歴史を系統的に研究し、その確立を行うことが本研究の目的である。

序章では、モンゴル帝国時代の定住都市の中に遊牧要素を複合した都市圏について、先学の研究をもとに更に詳細に考察を加える。ここでは始めて、13世紀から18世紀までのモンゴルの都市建設活動の歴史的な連続性について言及する。

第1章では、16世紀末にチベット仏教がどのようにモンゴルへ導入されたのか、また、チベット仏教寺院がどのように遊牧都市に取り入れられ構造化し、17世紀に至り定着したことを探る。

具体的には、1550年代~1720年代のフフホトの都市構造の特徴は、以下のようになる。

1.元朝以来、再びモンゴルで城壁都市を建設したアルタン・ハーンの都城建設計画では、13世紀の元大都を手本に都市機能の整備が試みられた。

2.元朝以来、再びモンゴルに導入されたチベット仏教の寺院建築の発展は、モンゴル建築史において17世紀を代表するものであった。

3.モンゴル人と漢人がそれぞれ遊牧と定住の生活様式を持ち、フフホト城はこの両者を併存させる都市構造になっていた。城にはハーンの宮殿区オルド(※2)があり、その周囲に遊牧民のゲルが張り巡らされ、更に半径3km程の周囲に漢人のバイシンが位置した。

4.商業空間は市場が主になっていた。本論では、この16世紀~18世紀にかけてのモンゴルのハーンの統治と仏教秩序の下で一部定住を含めた遊牧都市の形成された時期を、モンゴル地域の都市と建築の「近世」と位置づけた。

第2章と第3章では、1723年~1861年迄の間に、モンゴル地域の都市が多民族化したことによって、かつての遊牧都市がどのように定住都市へと変貌を遂げたか検証する。そこでは、2つの定住過程を明らかにする。

1つは、1727年に清朝がロシアとキャフタ貿易条約を結ぶことによって、中国、ロシア、中央アジアの貿易の中継地となったモンゴル地域に流入する漢人、回民(ムスリム)をはじめとした商業移民の手によって行われた、売買城の形成過程について明らかにする。具体的に、山西移民が売買城に山西地方の建築を持ち込み、新しい風土、商業方式に適用させた新たな建築類型を生み出し、北アジアの「チャイナ・タウン」を創出した。

もう1つは、同時代に、清朝工部のもとで、モンゴルに新城すなわち満州八旗城が建設されたこと、モンゴルの官署や王府、チベット仏教寺院の空間構造が「中華式」の平面構成を持つ定住型の構造へと変質させられていくことを明らかにする。

1760年代に帰化城(※3)が貿易都市として確立し、1820年代~1860年代迄に、その商業の最盛期を迎え、国際的な中継貿易都市として成立する。これによって、モンゴルの仏教中心都市であったフフホトは、貿易都市へと変わっていくことになる。

新たに誕生した売買城は次のようである。

1.モンゴル、漢、回民族の多民族が都市住民を構成し、それぞれの民族の宗教、政治施設を中心に民族ごとに棲み分ける形となった。

2.モンゴル人を管理する官署の施設が、清朝工部の指令に従い「官式」に改築させられ、また、孔子廟、天壇を建設させられ、中華式の建築・都市へと変貌していく。

3.都市計画がなされなかった売買城の空間構造は一見混乱しているが、実は内在する規律を持って造られていた。街区の町割は方形を基本とし、道路は重要度に応じて3段階に幅を変え、更に袋小路を合わせる手法で開発され、商業地と住居地が隣接しながらも、それぞれ独自の町割、構成、雰囲気が生み出されていった。

4.半牧半農によって支えられてきた遊牧都市は、商業の隆盛により定住都市に変身した。しかしながら、商店街の成り立ちや、ラマ寺院の門前広場、都市の各所に、様々な種類の市場が位置することなどに、売買城の中に取り込まれた遊牧都市の空間構成要素を見て取ることができる。

従来、近代化は、西洋からの影響を中心に捉えられてきた。本論文では、売買城と八旗城という2つの定住への過程を明らかにすることで、西洋の影響より以前からモンゴル地域が受けていた異文化の影響をも踏まえて近代を捉える、つまり近世から近代を捉えるという新しい視点での研究が可能になることを示した。

第4章では、1862年~1959年迄の、西洋からの影響によって進む近代化の中で、モンゴル地域の都市と建築がどのように変容したかを考察する。

19世紀後半~20世紀初めにかけての、西洋人の教会建築を代表とする西洋建築文化がモンゴルへの伝来は、外来文化の伝来としては、17世紀のチベット仏教建築文化、18世紀の山西地方及び北京を中心とする官式建築文化などの後に続くものであった。西洋教会建築は、先にモンゴルに定着していた山西民間建築の技術をもとに西洋様式を模倣し、西洋の教会堂空間を造り出した。

1910年代~1920年代にかけて、西洋建築は進んだものという見方がされ、近代技術への学習熱が高まり、民間では商業建築で洋風看板建築が流行していった。

1930年代になると、西洋建築の表面的な模倣を脱し、本格的な勉強に基づいた成果が登場した。

1930年代~1940年代にかけて策定、実施されたフフホトの都市計画は、その代表的な例であった。建築家、建設業者の登録制度が始められ、建設活動への管理も政府機関の手で行われた。

続いて、1950年代になると、ソ連の影響下に入り、政府建築、大学キャンパス計画、工業地建設などが次第に「ソ連式」になっていった。

終章ではアジア周辺地域における近代の都市と建築を考察するにあたっての研究視点を述べ、アジアにとっての「近代」を再考した。まず、周辺という言葉を次の3つの意味で使うことを述べた。

1.清朝のアジアでの中心から周辺への統治構造、すなわち本部、藩部、土司、朝貢圏、互市圏といった同心円構造の中で周辺に位置すること。

2.地理的に中国から見て周辺地域に位置すること。この地理的な位置が、後に中国と西洋との貿易の中継地になる条件として必要であった。

3.文化を発信するよりは、むしろ受容する立場に置かれたという意味においての周辺を示すこと。外来文化を受容する立場にあった周辺地域では、17世紀以来、アジアの商業、農業移民を受け、また、後に西洋的な影響を受けたことで社会、都市が大きく変化させられたのである。

このようなアジアの周辺地域では、近世都市・建築文化の根幹となる都市構造がどう変容したか、華人(漢人)商業移民によって都市と建築にどういった変容が起こったかを知り、その上で、西洋からの影響を検証することが、これらの地域の「近代の変容過程」を解明する新たな手法として確立した。

  • ※1 18世紀の内モンゴル、外モンゴルを合わせた地域を指す。
  • ※2 モンゴルの移動式の王宮である。
  • ※3 1575年、フフホトが創立する際に明朝から贈った中国語名である。

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