石川亮太氏 受賞論文要旨

近代朝鮮をめぐる国際流通の形成過程

-アジア域内市場の中の朝鮮植民地化-

写真 石川亮太

石川 亮太(いしかわ りょうた)
  • 【略歴】

    1997年大阪大学文学部史学科卒業。2000年同大学院文学研究科博士前期課程史学専攻修了。2003年同後期課程文化形態論専攻修了(文学博士)。現在佐賀大学経済学部講師。

本稿では、1874年に開港した朝鮮がアジアの国際市場に参加してゆく過程について、日本人・中国人の零細商人が国境を越えて構築していた商業網に注目して分析を行った。  周知のように、19世紀後半からのアジア諸地域は、主に欧米諸国の圧力によって開港ないし植民地化が迫られた。その結果、対欧米関係のみならずアジア内でも自由貿易の原則に基づく国際市場が急成長することとなった。  そこではアジアの現地政権による国際商業への介入は相対的に限定されており、かつ複数ヶ国にまたがって流通を組織化する巨大な経済主体も未だ成熟していない状況であったために、零細なアジア人商人の国境を越えた多角的な活動とそれによる財貨の移動の集積こそが、全体としてアジア域内市場のあり方を大きく規定していたのである。  これまでの朝鮮史研究では、朝鮮開港後の国際貿易について、1910年の日本による植民地化の前段階として捉えることが多かった。つまり、日本の国家的な支援の下での朝鮮経済の従属化過程として、日朝の二国間貿易のみを抽出して分析するという姿勢がとられてきたのである。   ところが、当時のアジア市場全体の性格について上述のような見方に立つならば、このような従来の視角は極めて一面的なものと言わざるを得ない。このような問題意識から、本稿では、対象とする空間的範囲を国境によって限定することなく、商人が形成する広域的な商業網の側に視点を置いて、その中に朝鮮半島が如何に位置づけられていたかという観点から分析を行うこととした。 具体的な検討は、以下の4つの事例研究を通じて行われた。   まず「長崎華商による朝鮮産海産物の輸出と在朝日本人の対応」(第2章)、「日清戦争以前における在朝華商の貿易活動」(第3章)では、いずれも開港から日清戦争までの対中国貿易を、朝鮮開港場で活動した日本人・中国人商人に注目して検討した。  この2章で重視したのは、この時期の朝鮮の対中国貿易が、担い手となった商人レベルから見た場合、必ずしも朝中二国間で完結していたわけではなく、日本開港場で活動する商人とも連携した、広域的商業活動の一部分として行われていたという点である。  続いて「20世紀初頭の咸鏡地方におけるルーブル紙幣の流通」(第4章)、「1910年代の間島における朝鮮銀行券の流通」(第5章)では、日清戦争後から植民地化直後について、中国との国境地帯における貨幣流通と、その担い手となった商人に注目して検討した。   ここでは、植民地化前の朝鮮における貨幣流通が、必ずしも国家の行政的領域によっては限定されず、国境を越えた商業活動に随伴した広域的流通圏を持っていたこと、植民地化後の日本による貨幣流通政策がこうした既存の構造に強く規定されざるを得なかったことを明らかにした。  こうした事例的研究を通じて、本稿では、開港後の朝鮮が、中国人・日本人商人が重層的に構築した、広域的かつ開放的な商業網の一端に組み込まれていたことを確認した。加えて、日露戦争後に朝鮮から満洲へと及んでゆく日本を中心とした「帝国」経済圏が、こうした零細商人の広域的な活動によって下支えされながら生成されていったことについても、確認することができた。   日本の植民地帝国は、国際流通の面から見れば、必ずしも既存のアジア域内市場から断絶した存在ではなく、むしろその構成要素の一つとして機能していたと見ることができよう。  このような本稿の結論は、日本の植民地帝国の形成を、日本の政策が一方向的に貫徹してゆく過程として捉えることを戒め、むしろアジアの多民族によって構成される市場構造の中で理解する必要があることを示唆しているといえる。

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