第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」 受賞者:中西 嘉宏(なかにし よしひろ)氏 論文要旨

論文タイトル「ネー・ウィン体制期ビルマにおける政軍関係(1962-1988)」

写真 中西 嘉宏

中西 嘉宏(なかにし よしひろ)
  • 【経歴】

    2001年3月東北大学法学部卒業。2001年4月京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程入学。2003年から2006年まで日本学術振興会特別研究員(DC1)。2003年から2005年まで東南アジア教育省連携機関・歴史伝統センター(在ヤンゴン)客員研究員。2007年3月京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士(地域研究)取得。2007年4月より京都大学東南アジア研究所非常勤研究員。

    (注)DC1・・・DCはDoctoral course studentsの略で、DC1は博士後期課程1年目から日本学術振興会特別研究員に採用されている場合の呼称。

(要旨)

本研究は、ビルマの軍事政権の特質とその長期持続要因を国家と軍との関係に焦点をあてて明らかにするものである。  1980年代以降、世界に民主化の波が到来し、東南アジアでもタイ、インドネシア、フィリピンなどで権威主義的な体制が崩壊して政治体制の民主化が観察された。しかし、ビルマ(ミャンマー)では1962年3月2日クーデタ以来、現在に至るまで世界的にもまれなほど長期間にわたって軍事政権が続いている。ビルマの軍事政権とはいったいどういった体制で、なぜかくも長く続くのだろうか。この問いは多くの東南アジア政治研究者に共有されながら、現地調査の難しさもあってこれまで十分に検討されてはこなかった。

そこで、本研究は、40年を越えるビルマの軍事政権のうち、1962年から1988年まで26年間続いたネー・ウィン将軍を中心とする政治体制(以下、ネー・ウィン体制)について、現地での長期フィールドワークで入手した一次資料とインタビューを利用して、主に以下の2点について検討を行った。ひとつに、1962年に政権を奪取したネー・ウィンは、いかにして1988年まで権力を維持することができたのだろうか。もうひとつに、ネー・ウィン体制下において国家はどのように変わったのか。とりわけ国家と国軍の関係はどのように変容したのだろうか。

まず、第1章で上記問いの背景を敷衍した上で、本研究の視角を提示し、第2章ではビルマにおける国民国家と暴力機構の歴史的背景を整理した。そして、第3章から第6章にかけて、ネー・ウィン体制期の国家を構成した主要な要素、国家イデオロギー、ビルマ社会主義計画党、行政機構、国軍を順にとりあげながら実証的に考察した。

第3章では、ネー・ウィン体制の成立をイデオロギー的側面から考察した。ネー・ウィン体制の国家イデオロギーである「人と環境の相互作用の原理」は共産党出身の一軍属によって起草されていた。彼の個人史と思想形成の分析を通して、そもそも軍の反共主義プロパガンダでしかなかった文書が、軍内の強硬派の台頭とクーデタを受けて、ネー・ウィン体制の国家イデオロギーになったことを明らかにした。

第4章では、ネー・ウィン体制の形成と発展を党国家の建設とその挫折としてあとづけた。独立以来続いてきた議会制民主主義を廃止して導入されたビルマ社会主義計画党(以下、計画党)による一党支配体制。従来、同党は軍による支配を覆い隠す組織とみなされていたが、本章ではネー・ウィン独裁を支える重要な政治的機能を計画党に見出し、ネー・ウィンによる党国家建設の過程を描写するとともに、1977年にそれが挫折したことを指摘した。

第5章は行政機構改革を主たる分析対象としている.ビルマの軍政の重要な特徴は文民行政機構の発展が停滞しているにもかかわらず、体制が長期安定を実現していることにあった。そこで、1962年以降の行政機構改革の内容と帰結および、1972年から1987年までの国軍将校の全出向人事を精査した。その結果、1972年の行政機構改革と1974年の憲法制定を機に、国軍将校団のネットワークが、出向の名のもと行政機構に深く浸透していき、植民地期以来の文民官僚たちの影響力が失墜したことが明らかになった。

第6章では,ネー・ウィン体制を機構的に支えた国軍の組織構造と人事について論じた。課題は、国軍がネー・ウィンの独裁に対して持つ支持基盤と脅威という2つの側面に注意を払いながら、ネー・ウィンによる国軍将校団の掌握とその限界を明らかにすることであった。1970年代後半から1980年代を中心に、ネー・ウィンによる国軍統制のシステム、すなわち、党軍化と人事の制度化・分断化がどのように進められていったのかを検討し、将校団がいかにネー・ウィンに掌握されながら、また同時に世代交代のなかで将来の不安定要因を抱え込むものであったのかを明らかにした。

第7章では、1988年のネー・ウィン体制崩壊および新しい軍政が誕生する過程を素描し、それもふまえながら、第1章の問いに対する本研究の回答を示して結論とした。それは次のようなものとなるだろう。

ネー・ウィンの権力維持は相対的に小さな国軍将校団に対して、他の国家機構および計画党の役職を極めて多く配分することで達成された。人員不足のなかで国内の反政府勢力鎮圧作戦に明け暮れる当時の国軍の状況から考えて、それは軍事的には決して合理的な行動ではなかった。しかし、社会主義国家実現という1930年代のビルマナショナリズムに起源を持つネー・ウィンの理想がそれを可能にした。議会制民主主義は否定され、計画党による一党支配体制が構築された。官僚制は「破壊」の対象となって、大規模な行政機構改革が実施される。しかし、両者ともに既存の制度を否定するだけで目的を達成できぬまま改革は頓挫してしまう。この過程が国軍将校団内のキャリア・パターンの制度化などと結びつくことで、国家および党を国軍将校団に従属的な機構に変えていった。結果、政府の政策作成・実施能力は低下したものの、軍内人事の停滞は生じずに、将校団に不満が蓄積することは抑制され、彼らに強い体制維持インセンティブが与えられることになった。国軍に権力基盤を置くネー・ウィンの地位も安定することになったのである。

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