第7回井植記念「アジア太平洋研究賞」 受賞者:井上 さゆり(いのうえ さゆり)氏 論文要旨

論文要旨「ビルマ古典歌謡におけるジャンル形成―18~19世紀のウー・サの創作を中心として―」

写真: 井上 さゆり 氏

井上 さゆり(いのうえ さゆり)
【経歴】
1994年東京外国語大学外国語学部インドシナ語学科卒業。1997年3月東京外国語大学大学院博士前期課程地域文化研究科アジア第二専攻修了。1998平成10 年4月東京外国語大学大学院博士後期課程地域文化研究科地域文化専攻入学1999年から2001年までミャンマー国立文化大学音楽学部留学(松下国際財団奨学生)。2004年3月東京外国語大学大学院博士後期課程単位取得退学、同年4月より日本学術振興会特別研究員(PD/東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)を経て、2007年6月博士号(学術)取得。2005年11月より東京外国語大学非常勤講師。
(要旨)

本論文は、現在「正典」化されているビルマ古典歌謡を取り上げ、その内部の「ジャンル」が歴史的にいかに生成したか、そのダイナミズムを明らかにするものである。具体的には古典歌謡のなかでも18 世紀に登場したパッピョーと呼ばれるジャンルを取り上げ、歌謡集編集、音階構造、創作技法、ミャワディ卿ウー・サ(1766-1853、以下ウー・サ)という作者という四つの視点から考察を加える。ちなみにパッピョーは古典歌謡のなかで最も作品数が多く、最も要とみなされるジャンルである。

本論文は七章により構成される。

第一章では、従来の先行研究に対する位置づけと意義を示す。

第二章で、「歌謡集」として編纂されたものの一次資料=貝葉(1788 年~1917 年)の検討を通じて、作品が作られたときからジャンル認識があったという従来の通念を覆し、1870 年以降に歌謡集が多数編纂されるようになった時期に、はじめて、ジャンル区分という認識が明確に生じた点を指摘する。この具体的な過程を以下で検証する。

第三章では、各ジャンルを規定すると考えられる五つの指標(調律種、拍子、特定のジャンルに属する作品に頻繁に使用される旋律、ジャンルごとに定まった前奏、後奏)を提示し、ジャンルと指標が結びつくものでありながら、ときに指標から「逸脱」した作品も存在することを示した。つまり、ジャンル間が断絶したものではなく、二つのジャンルにまたがる作品が存在することが指摘でき、筆者はこれらを「両義ジャンル」作品と呼んだ。

第四章では、古典歌謡における創作とは、既存の素材を組み合わせて作るものであるという特徴を指摘する。民族音楽学者のBecker は、弦歌の旋律パターン内に共通性があることに気づき、それをパターンのオーバーラップと呼んでいるが、筆者はこの分析が共時的なものであると批判し、これらを同時代資料から通時的にみていく必要があるとする。

第五章では、古典歌謡の分析を通じて、ウー・サの作品がパッピョーというジャンルにおいてはほとんどオリジナルな作品の創作を行っていたことを指摘する。

第六章では、最終的にある作品群がジャンルとして認識されるプロセスを示唆する。つまり、後世で多くのパッピョーを作ったと認識されているウー・サ本人は、1849 年自ら編集した歌謡集では、後にパッピョーと呼ばれる作品について、ジャンル名(パッピョー)を書かず、「タンザン(新奇な音)」と呼ぶ。その後に編纂された歌謡集(『歌謡の題名集』(1870)、『大歌謡の世界』(1881)、『著名歌謡作品全集』(1917))を調べると、この「新奇な音」を模倣するものが出て、徐々に類似の作品が蓄積し、ジャンルとして認識されていく過程が伺える。

すなわち、筆者が結論づけたジャンル形成の動態は以下のようなものである。後世パッピョーと呼ばれるジャンルについては、ウー・サという作家が新しいタイプの作品を作り、それが他の作者に踏襲され、作品が蓄積した後に、初めてジャンルとして認識されることになった。また、写本間でジャンル区分が一致していない作品も多数見られ、これはおそらく「両義ジャンル」作品であり、ジャンルの境界上に位置していたと考えられるが、歌謡集編集の過程でジャンル帰属が固着化していった。すなわち、パッピョーというジャンルは、その領域の持つ「両義性」が、歌謡集編集の過程で後景化されていき、ひとつの領域に帰属させられていくことで形成された。

ビルマの大歌謡におけるジャンルとは、創作の流れを命名しようとする「動き」であり、自身の中に歴史を内包する「過程」であるといえる。そして、ジャンルとは、特定の指標によって定義されうるものでも、作品によって定義されうるものでもなく、絶えざる解釈を伴う類型化への志向ととらえられると、筆者は結論づける。

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