第8回井植記念「アジア太平洋研究賞」佳作 受賞者:林 初梅(りん ちゅめい)氏 論文要旨

写真: 林 初梅 氏

林 初梅(りん ちゅめい)
【経歴】
台湾生まれ。東呉大学外国語学院日語系卒業。1994年に広島大学大学院教育学研究科博士課程前期修了。2007年に一橋大学大学院言語社会研究科博士課程修了(博士(学術))。台湾省文献委員会(現在は国史館台湾文献館)研究員、日本社会事業大学・東京外国語大学・聖心女子大学など非常勤講師を経て、2008年より台湾師範大学台湾文化及語言文学研究所助理教授。専門は言語社会学、言語教育。
(要旨)

本論文は、日本統治時代の1930年前後から推進された郷土教育、1945年以後に始まった中華民国による郷土教育、民主化の始まった1980年代後半からの郷土教育の新たな展開を取り上げている。そして2000年代に入り、台湾は多元的にして、統一的である、という価値観を台湾社会が見つけ出したとまとめる。現在の台湾では、10以上の言語が郷土言語として小学校で教えられ、また台湾に住むいくつものエスニックグループが、全く異なる民俗、文化、神話などを持つことも小学校で教えられており、多元的とはそのことを指すものである。

研究の対象は1990年代以降の郷土教育であるが、1990年代の郷土教育を歴史的角度から理解するため、取り上げた時代は日本統治時期にまで遡る。第Ⅰ部では、今日の郷土教育との接点を確認するために、台湾における郷土教育の史的展開を考察した。日本統治時代の郷土教育は国土日本を学習する側面もあったが台湾を郷土として捉えていた。戦後1945年以降に展開された中華民国の郷土教育では、身近な地域を学ばず、郷土は大陸にあると捉えていたことを明らかにした。第Ⅱ部では、台湾を教えず、中国を教えるという1945年以降に始まった教育が1970年代になって変化し、徐々に台湾化へ向かった展開を追跡し、民間人や野党側の台湾化教育の要求がどのように中央政府の郷土教育政策の意思決定に結びついたかを解明した。第Ⅲ部は1994年の郷土科設置以降、2000年までの間に台湾史、台湾文化が学校で教えられるようになるとともに、教科書の中で、日本統治の評価に変化が現れた展開を考察し、さらに郷土言語教育の推進が直面した言語規範化の問題をも分析した。第Ⅳ部では2001年から始まった新課程で、新たに台湾の諸言語が郷土言語として小学校で教えられるようになったこと、また台湾史の扱いにさら変化があったことを取り上げた。

本論文は、そのような経緯をとおして、1990年代から起こっている郷土観、歴史観、及び言語観の編成替えの様態を把握したが、分析に当たって、台湾アイデンティティの変容という視点をとり、郷土教育が、1990年代の郷土教育は、台湾ヘゲモニーと中国ヘゲモニーの競い合いを通して内容形成されたと理解する。その背景には戦後、長期にわたって中国化の教育内容が進められ、身近な学習領域の「郷土-台湾」が否定されていたという知識人の問題意識があった。本論文で明らかにしたことだが、中華民国移行後の郷土教育は中国ヘゲモニーを支えるものだったのである。1990年代の郷土教育の形成は、それに対して、台湾主体の教育の実施を目指すものであった。民主化の始まった1980年代後半からの言論自由化の進行が、抑圧されていた台湾意識を解放し、教育を台湾化しようとする潮流を生み出した。その過程は、歴史認識再編成を引き起こし、「中国」に対抗する「日本」という要素が、日本による植民地統治の受容の問題として微妙に折り重なり合った。例えば、かつて郷土教育でたびたび言及された「日本植民地時代による近代化形成」は、中国と異なる台湾社会の独自性、特殊性として郷土教育の教科書で言及されるに至っている。日本統治時代の郷土教育には、中華民国時代と違い、台湾ヘゲモニーを支える性格があったことから、その成果を継承しながら進められたのである。そうした台湾ヘゲモニーを目指す立場は、当初民間運動として展開されたが、やがて中央政府の教育政策に反映され、1990年代の終わりには、教育内容の中核となった。そのような経緯を経て、国家による統制ではなく、民主的なプロセスで民意を反映して生まれた今日の台湾の郷土教育は、台湾史、台湾諸言語に関する理解を深め、自らのアイデンティティのあり方を確認しようという方向性さえ持ったのである。

本論文は、最後に、アイデンティティの焦点が、台湾という土地と結びつく共同体の多元性の認識や理解に移ってきたということを、最新の動向として指摘する。民主化で生じた価値観の競い合いが台湾の多元性を肯定的なものとして理解する素地を作り出し、多言語・多文化は、台湾の固有性であると理解されるに至ったことに注目するのである。現在の郷土教育の実施には「台湾ナショナル・アイデンティティへの追求」と「文化的多元主義を目指す台湾人アイデンティティの形成」を示す二つの側面が見られ、現在の台湾は単一の均質的なアイデンティティではなく、多元的なアイデンティティを持つ統合を目指すという価値を探し当てたという状況にあると捉える。

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