第9回アジア太平洋研究賞(井植記念賞)受賞者 吉田 真吾(よしだ しんご) 氏

論文タイトル「日米同盟の制度化:1963-1978年」

写真 吉田 真吾 氏
吉田 真吾

【略歴】

2004年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2006年同大学大学院法学研究科政治学専攻前期博士課程修了。2010年同大学大学院法学研究科政治学専攻後期博士課程修了(博士(法学))。この間、防衛庁/省防衛研究所非常勤調査員(2005年~2007年)、日本学術振興会特別研究員(DC2)(2007年~2009年)。2010年4月より、日本学術振興会特別研究員(PD)として東京大学東洋文化研究所にて研究を行う。

【要旨】

日米同盟の制度化:1963-1978年

本稿の目的は、1963年から78年にかけての期間に日米同盟の制度化が進んだことの原因を解明することにある。「同盟の制度化」とは、公式性と平和時の軍事協力という2つの側面で同盟関係を運営する仕組みが整えられることを意味する。51年の旧安保条約の調印から60年の改定安保条約の締結を経た60年代初頭までの時期には、日米同盟の制度化の度合いは極めて低いままだった。これに対し、63年から78年までの期間には、同盟の公式性を象徴する安全保障協議が数多く新設されるとともに、78年に「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が策定されたことに代表されるように、それまでほとんど手付かずだった自衛隊と米軍の軍事協力の枠組みが出来上がる。

なぜ、60年代中盤から70年代後半にかけて日米同盟の制度化が進んだのか。この問題に対して、本稿は、当該期に起こった四つの国際変動によって日米両国間に相互不安が生じ、それに対処する手段として同盟の制度化が行われたという議論を提示する。四つの国際変動とは、60年代中盤における核と経済の「パワーの拡散」、60年代終盤から70年代初頭の米国の軍事プレゼンス縮小、70年代前半に成立した米中和解と米ソデタント、そして70年代中盤から後半にかけての米ソ軍事バランスにおける米国の優位喪失である。

本稿の議論は、より具体的には以下の三点からなる。第一に、当該期の国際環境の変化は、米国は日本に安全を提供する能力も意図もないのではないかという日本の政策当局者の疑念を引き起こした。第二に、米国の政策当局者は、そうした疑念を抱いた日本が東側陣営寄りの中立化や独自核の開発などの自立的な外交・安全保障政策を再選択することを不安視した。第三に、日米両国は、相手の意図や行動に関する不確実性―相互不安―を軽減するために、日米同盟の制度化を進展させた。具体的には、相手の意図に関する不確実性を低める効果を持つ政治協議が設置されるとともに、同盟の信頼性を高めたり、相手の行動を拘束する効果を持つ軍事協力の深化が実施された。

本稿では、以上の議論を実証するために、新聞や外交文書集などの公刊された資史料、当時の政策当局者によるオーラル・ヒストリー、そして筆者が東京とワシントンの公文書館や全米各地の大統領図書館で渉猟した日米の外交文書に基づいて、歴史叙述を行っている。

ページのトップへ戻る