第9回アジア太平洋研究賞(井植記念賞)《佳作》 趙 胤修(ちょ ゆんす) 氏

論文タイトル「日韓漁業交渉の国際政治-海洋秩序の脱植民地化と『国益』の調整-」

写真 趙 胤修 氏
趙 胤修

【略歴】

1996年翰林大学人文学部卒業(韓国)。1998年翰林大学国際大学院卒業(政治学修士、韓国)。2008年東北大学法学研究科卒業(法学博士)。2005年から2008年10月まで文部科学省奨学生。2004年10月から2008年12月まで東北大学法学研究科21世紀COEプログラムアシスタント(RA)。2008年1月から11月まで国民大学日本学研究所研究員。翰林大学、崇實大學などで非常勤講師。2008年12月から現在、東北亜歴史財団研究委員。研究分野は日韓関係、東アジア政治。著書(共著)として『外交文書公開と韓日会談の見直し:議題としてみる韓日会談 』がある。

【要旨】

日韓漁業の国際政治-海洋秩序の脱植民化と『国益』の調整-

本研究は、近年公開された35,000頁以上に及ぶ韓国政府の外交文書を中心とした外交史料に依拠し、1965年の日韓国交正常化までの14年間にわたる日韓漁業交渉の過程を通して、韓国の対日政策を分析したものである。

いわゆる「李ライン」に関する先行研究は、それが交渉カードであったという主張と、漁場確保という韓国側の実質的利益のための措置であったという主張の二つに大分される。ただし、両者は、李ラインが歴史的なアンタゴニズムに基づいた反日主義的な心理感情に基づくものと解釈する点で共通している。日本からの独立後も、韓国は脱植民地化を進める中で、日本が膨脹主義的な国家であるとのイメージを持ち続けた。このような韓国側の心理感情は、戦後日本の経済的支配に対する警戒感を生み、当時、韓国唯一の輸出分野であった水産業と直結する漁業分野での交渉にも大きく影響した。第3次交渉までの間は、そうした日本に対する警戒心が強く保持され、韓国側がマッカーサー・ラインを侵犯して操業する日本漁船を韓国の領海に対する侵略として認識していたことが外交史料からも確認される。

このような日韓の激しい対立状況は第4次交渉から変化を見せ、李承晩は李ラインを一種の交渉カードとして活用し始めた。韓国側の態度の変化は、アメリカの経済・軍事援助の縮小というに国際情勢の変化によるもので、ここから韓国では、「国益」の再定義が図られた。特に朴正熙政権成立後の第6次会談から、漁業交渉が請求権交渉のために犠牲になったという「通説」が説得力を持つ状況となったが、外交資料を綿密に分析してみると、漁業交渉と請求権交渉は対等な関係であり、それぞれ独自の意味と重要性を持っていたことがわかる。

従来の諸研究では、現実主義の立場から冷戦体制下でのアメリカの介入が日韓交渉を可能にしたということ、李承晩の反日政策が日韓会談の妥結を不可能にしたこと、そして朴正熙の親日的な姿勢が日韓交渉を可能にしたということがいわれてきた。しかし、韓国が初期の日韓会談においては消極的な態度を維持していたにもかかわらず、朴正熙政権以降は積極的な妥結の姿勢に転じたのは、韓国において「国益」の概念が再調整されたことに起因するのである。即ち、李承晩政権の後期の日韓漁業交渉における対日政策の消極的転換から、張勉政権の時期、そして朴正熙政権に至るまで、「国益」の概念が徐々に変化していったという指摘が本研究の新規性である。

ページのトップへ戻る