淡路会議声明 2005

2005年8月6日(土) 第6回アジア太平洋フォーラム・淡路会議

「第6回アジア太平洋フォーラム・淡路会議」は、2005年8月5日と8月6日の両日、淡路夢舞台国際会議場において「アジアの急成長と食糧危機」をメインテーマに、その分野における内外の第一線の学者や専門家を招いて活発な討論を繰り広げた。

グローバルな食糧問題

地球人口は1世紀から20世紀はじめまでの間に、なだらかに約4倍の16億人に増えた。ところが20世紀だけで60億人へとさらに約4倍となった。猛り狂ったような人口爆発である。このペースで地球人口は膨張を続けるのであろうか。その場合、人類はその巨大人口に食糧を提供し続けることができるだろうか。

人口爆発は永続するわけではない。日本の人口は今後減少に転ずるし、現在約13億人の中国も16億人をピークに伸び止まると見られる。確かな見通しは立てようもないが、21世紀中に地球人口は、ほぼ120億人まで進むものと想定してよいであろう。それは食糧危機を必然化するであろうか。

すでにわれわれは食糧危機を経験している。1973年には世界同時不作により大豆不足のパニックを来たし、1993年には平成のコメ不作により緊急輸入に走った。今後も世界各地での地域的食糧危機は繰り返し起こりえよう。とりわけ水不足や異常気象による事態の悪化が憂慮される。サブ・サハラのアフリカなどにおいて、とりわけ事態は深刻である。

けれども、人類社会の全面的な食糧危機が不可避の必然であると断ずることはできない。これまでの食糧生産は耕地面積の拡大よりも、農業生産技術の進歩による単位面積当たり収量の上昇によって増大してきた。今後もバイオ技術の発展などにより、たとえば120億人の人類が必要とする食糧生産を、もたらすことは不可能ではないであろう。

もちろん大きな試練がいくつも存在する。かつて「緑の革命」と呼ばれた試みの中で小麦やイネの画期的な新品種が開発された後、それを食い散らす膨大な害虫の集団発生によって楽観論に水が浴びせられた。今後も、遺伝子組み換え技術が新たな弊害をもたらす危険性がありうる。しかし、かつて害虫に強い新品種がさらに開発されて結局は食糧生産が拡大したように、試練を超える試みを人類は止めないであろう。

たとえ地球人口と総食糧生産とのマクロ的なバランスを達成しえたとしても、自然的・社会的理由による一時的な食糧危機は起こるであろう。また、地域的な不均衡による一定の国と地域における深刻な事態は避け難い。地球的に食糧供給がある場合、購買力のある国は問題ないが、政治的不安定の中で内戦を招き、農業技術の集積が進まない人口増加率の高い途上地域などでは、食糧危機状況が持続する惧れがある。またフィジーからの参加者がこの会議で訴えたように、地球温暖化に伴う海水面の上昇により、低地の水没という重大な事態も憂慮される。

グローバルな趨勢は、全面的食糧危機の到来というカタストロフィーではなく、容易ならぬ試練に相次いで直面する事態であろう。それを克服する知恵と努力が人類社会に問われているのである。

アジアの急成長と食糧問題

中国を中心とするアジアの巨大人口を擁しての経済大躍進は、世界の食糧とエネルギーを呑みほし、国際マーケットをひっ迫させる危険性が時として指摘される。たとえば、1993年のコメ不足に際して日本が260万トンのコメを緊急輸入した結果、コメの国際価格が上昇し途上国の貧しい層がコメを買えなくなる現象が認められた。それを巨大化する事態が今後のアジアに憂慮されるわけである。

けれども、前述のように中国の人口増加は20~30年のうちに頭打ちとなる見通しであるし、豊かになったからといって人間の胃袋が急膨張するものではない。むしろ、食生活が穀物中心から肉類嗜好へ高度化するとともに、畜産を支える膨大な飼料をどこに仰ぐかが問題となろう。また、その間GDPを4倍にという野心的な経済成長を表明する中国にとって、エネルギーと環境の問題が一層深刻であろう。国際的な食糧価格が低落気味である今日の事態を、アジアの急成長が反転させ世界の食糧不足と高値をもたらすとは考えにくい。むしろ急成長のアジアは購買力に恵まれた食糧危機を来たしにくい地域へと発展する可能性も考えられる。1996年のローマにおける世界食糧サミットは、2015年までに地球の飢餓人口を半減させるミレニアム・ディベロップメント・ゴールを声明した。実は、この目標をアジアは達成しようとしている。

食糧に関連して、中国に深刻な問題は水不足である。世界平均の4分の1の水準と見られる水不足状況にあって、灌漑設備や植林などによる砂漠化との戦いは注目される。歴史的に治山・治水の社会的対処が重ねられてきた中国に対して、雨水に頼る度合いが高く、かつ人口増加率の高いインドの方が農業用水をめぐる事態は困難である。

重要なことは、中国やインドの急成長に対して具体性を欠いた脅威感や危機感に陥って不必要な敵対感情や政治的対立を招来することなく、近隣諸国共通の試練に対し可能な協力を行うことである。水にせよ、環境にせよ、農産物にせよ、結局は地域共通の課題なのである。

日本の食糧問題

日本の直面する食糧問題の深刻さは、世界的な食糧危機を必至と考えるか、全般的に見て地球的な人口拡大に見合う食糧供給は可能と見るかによって全く異なったものとなる。もちろん想像を絶する天変地異が突然起こり、世界同時凶作のパニックを招くこともないとは言えないし、地球温暖化が人類の活動地域の多くを水没させるなど、環境破壊が重大なレベルに達することもありうる。また、人為的・社会的要因によって世界の経済活動が寸断される事態もありうる。そのような破局的な事態を頭の片隅に留めつつも、これまでの経験と近年の実績から蓋然性の高いシナリオを想定するのが妥当であろう。

今後の世界が地球人口と食糧供給のバランスをさまざまな努力により大局的に保ちうると考えつつも、自然的・社会的諸要因により生じるであろう日本の食糧危機を回避し、非脆弱化していくことがわれわれにとって急務と考える。

日本の食糧自給率は40%の低きにある。当然ながら自給率を高める努力が一方で強調される。とりわけ食糧安全保障、国土保全、水と環境の保全、美しい景観の維持など水田の多面的機能を強調して、稲作を守ることを至上命令とする観点も存在する。

食糧自給率40%という数字は、逆に日本がいかに安定的な農産物輸入大国であるかを示す。日本は、しばしばイメージされるような全般的な農産物保護主義の国ではない。ごく限られた1割程度の品目が、日本の農産物保護主義を象徴するものとして語られている。コメの関税率490%(輸入76万トンを超える部分)、小麦210%、バター330%、こんにゃく900%などである。日本はこれら例外をかかえつつ、全般的には世界の農産物に開かれた輸入国なのである。

そのことには理由がある。グローバルな相互依存が進む国際経済にあって、一国主義的な保護措置に走ることの限界に加えて、水不足が顕在化していない日本においても、実は農産物の輸入によって事実上の大量の水輸入を行っているという現実がある。コメ生産への過度の集中と高コストの在来型国内農産からの脱却が図られねばならない。それは安易に国内生産を断念して輸入に依存する対応ばかりではなく、市場経済の中で日本農業を成り立たせる多様な努力が試みられねばならない。

そのような試みとして、本会議では、ブランド化された高価な日本の果物やコメを、豊かになったアジア近隣諸国に輸出するケースのほか、アルゼンチンの土地を購入して大豆の有機栽培を行って日本に送る岐阜県の試み、「おいしいごはんを食べよう」という兵庫県に始まり全国に拡がったコメ生産を支える民間運動、さらに科学技術を投じてレタスの水耕栽培を開発した農業を産業としてとらえる企業の例などが報告され、注目を集めた。

今日の国際的枠組として、FTA/EPA(自由貿易協定/経済パートナーシップ協定)は興味深い。WTOが国際的な共通基盤が未成熟な中で普遍主義的自由化を進めようとして勢いを失った。そうした中、FTA/EPAは、各国において政治的にセンシティブな品目を互いに棚上げしつつ、特定国間の広汎な自由化・共同化を進める制度である。政治と結びついた部分利益の暴走を制して、農産品などで競合する国々ともFTAを結ぶ努力を傾けるべきであろう。

日本の課題

今日の世界には、飢餓、微量栄養素の欠乏、肥満という栄養をめぐる三重苦が拡大している。日本はこうした三重苦から世界でもっとも自由な国である。食生活と健康に関して、日本は一つの模範であると言ってよい。また、イネや小麦の品種改良についても大きな役割を果たし、日本はその技術によって世界の農作に貢献してきた。

世界には、なお8億人の人々が飢餓に瀕している。日本には東アジア諸国の工業化に協力した実績があるが、それをもって国際協力活動を低下させてはならない。急成長を遂げている東アジアの諸国とともに、サブ・サハラのアフリカから中央アジアにかけての経済破綻に瀕している国々への農業支援・人材づくり協力、そしてできれば産業建設への協力を展開して然るべきであろう。9/11テロ以降の荒れた世界に対して、平和構築と国づくりの努力を支えることこそが、もっとも根本的な課題である。21世紀の人類社会は、そのような努力なしに順調な航海を望み得ないのみならず、それは広い意味で日本自身の安全と利益にとっての必要である。

そのように考えるならば、われわれは隣国とすら過去の問題をめぐって、協力困難に陥っている政治的リーダーシップの貧困を憂慮せざるを得ない。確固たる農業と食糧に関する国家的・国際的戦略を樹立し、アジアの急激な変動の中に不安だけでなく機会をも見出して、地域共同体形成をアジアの国々とともに討論して推進し、より深刻な事態にある国々への共同支援について国際的リーダーシップをとる、そのような力強い対処こそが日本政治に必要である。もしそれを政治がなし得ないならば、民間と地方がそれをカバーする行動をもって支えねばならない。そう淡路会議は宣言するものである。

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