淡路会議声明 2006

2006年8月5日(土) 第7回アジア太平洋フォーラム・淡路会議

2006年8月4日と5日の両日、第7回アジア太平洋フォーラム・淡路会議を、淡路夢舞台国際会議場とホテルアナガを会場に、「アジアに迫る少子・高齢化」をテーマとして開催した。このテーマは、1億2千8百万の日本の人口がついにピークを越え、減少を開始するという分水嶺の年に今年があたっているだけに、時宜を得たものといえよう。この世に存在するさまざまな統計数字の中で、50年先をも確実に予測できる人口動態のようなものは稀である。それ故に問題があれば対策は早めに取ることは可能である筈であるが、往々にして対応は遅れ、問題が直近に迫ったときには手の施しがないとの想いにとらわれる。「少子高齢化の進行により、日本は衰亡に向う」といったイメージが近年の日本社会にたちこめているのである。このような大雑把で暗い宿命論は、不正確であるだけではなく、未来への意味ある対処を基礎づけうるものではありえない。「少子高齢化」の反対概念を求めるとすれば「多子若死」社会となるであろうが、それが人々の望みではありえない。人口動態の変化は文明史的な意味を持つものであり、それだけに「少子高齢化」の重層的意味を、正確に切り分けて認識する必要があると、本会議は考える。

また本会議は、「少子高齢化」を日本固有の問題としてではなく、世界とアジアに共有されている問題として把える。「少子高齢化」は従来、どちらかといえば先進諸国の問題と認識されてきた。しかしアジアの実情は、それに疑念を投げかける。世界に起っていることを的確に認識し、その中での日本の位置と、真に対処すべき課題を見出そうと、本会議は、アジア太平洋諸国の専門家を招いて、2日間にわたる報告と討論を行った。

「少子化」・「高齢化」・「少子高齢化社会」は、それぞれ異なる意味をもつ問題であり、区別して検討されねばならない。

「少子化」は出生率の低下の問題であり、アジアにおいて長期的な人口置き換え水準、すなわち一人の女性が平均2.1人を出産する水準を、9ヶ国が割り込んでいる。日本の出生率が1.25に低下したことは、日本人に大きな衝撃を与えたが、実は韓国が、1.08を記録して、日本以上に急速な出生率の低下に進んでいる。中国・台湾以北の東アジアの平均出生率が1.8であるのに対し、東南アジアでは2.5、南中央アジアでは、アフガニスタンの6をはじめ、高い出生率の国が多く、3.2の高さを維持している。

「少子化」は、長期的に社会を支える若い世代と活力ある労働力の縮小を招くものと、一般に憂慮されている。しかし、この問題の権威であるハワイ大学のアンドリュー・メーソン教授は、本会議において、少子化進行過程における「第一次人口ボーナス」(First Demographic Dividend)論を展開して、その局面を恵まれた時代と定義した。すなわち、少子化が始まり養うべき家族が減少しても、なお生産人口が高く維持される状況が相当期間続き、そのことが一人当たり所得の高配分をもたらすのである。

日本の場合でいえば、中学・高校の卒業生が都会へ集団就職する情景が始まった1957年に、すでに出生率は2.1を切った。その後も出生年齢層の厚さによる「人口モメンタム」が働き、人口は増え続けたが、48年を経て、今ついに人口の急激な減少局面に入ったのである。

その間、日本社会では、同時に「高齢化」が急進展した。高齢化は言うまでもなく、平均寿命の上昇を動力としており、それ自体社会の誇るべき成果である。高齢者は自らの長い老後に備えるため、多くの貯蓄を行う。この高齢者層の富を有効活用することによって「第二次人口ボーナス」の時代を、今後20年ほどの間に持ちうるとの見方も、本会議において提示された。経済の動向は多くの要因によって左右されるので、この要因がどれほど作用するかは即断できないが、重要なことは、いたずらに少子高齢化による衰退宿命論に身をゆだねるのではなく、歴史の新しい局面に積極的な可能性を見出し、それを実現する方途を冷徹に追求することではないだろうか。

日本は世界で最も早く長寿社会に突入しているが、アジア諸国を含む多くの国々が遠からず同じ局面を迎える。日本が高齢化社会をどうこなすかは、実は世界における文明史的意義を持ちうる。日本がまっ先に対応の型をつくる機会を与えられているのであり、それを立派に行うならば、「日本モデル」は世界のブランドとして流通しうるであろう。

少子高齢化社会という挑戦に日本が押しつぶされず、パイオニアとしての役割を果すために、何が必要であろうか。第一に、60才といった物理的年齢によって退職を強制するしくみを捨てねばならない。80才まで生きるのが普通になった日本社会である。健康であり、働く意思と能力がある限り、65才といわず70才までも働き続けることができる社会に改めて行かねばならない。資源乏しく国土の狭い日本にとって、頼るべきは人的資源のみであると、明治以来の日本は自覚し教育を重視してきた。幸い日本においては、高齢者の間で働く意思と能力は国際比較してもきわめて高い。この人的資源を有効活用することが極めて重要である。高齢者が若い世代におぶさるだけでなく、高齢者も社会を支えるのでなければ、少子高齢化の進行とともに社会は成り立たなくなるであろう。また大きな比重を占める高齢者を、企業と社会全体が重要な主役とみなすように変わっていかねばならない。

第二に、出生率の低下を放置するのではなく、その改善のため多くの努力がなされねばならない。多くの女性が職を持つようになった今日、出産によって事実上退職を求める社会構造は、当人にとって大きな機会と収入の喪失を意味する。国や社会が出産経費をもつことも必要であるが、それ以上に出産育児休暇を認め、女性が職を続けうる制度がいっそう根本的な対処であると思われる。日本と韓国のみが出産による退職のしきたりのある社会であり、その両国が世界において出生率の極めて低い二国であることは無視できない。

第三に、人口移動である。日本社会の65才以上人口は、現在21%、2050年に37%に進むと試算されている。こうした高齢化は、出生率の低下、長寿化とともに、人口移入の乏しさによって進行している。日本の労働力に外国人の占める比率は0.3%であり世界最低水準である。日本は従来より高い技術を持つ人材のみの移住を歓迎してきたが、優秀な人材を集めるのは、多くの国々の希望であり、日本がその競争に成功していないことを記録が示している。そんな中、日本でも韓国でも、外国人女性との結婚による人口移動が増大していることは注目される。日本にとって貴重な人材とは、日本に不足する人材である、との現実に立って、看護士や介護士などの人材をより積極的に迎えるべきであるとの提案がなされている。安易な労働力の移入がさまざまな社会問題を生ずることは、ヨーロッパの先行例に見られる通りであるが、それを克服する試みが必要であろう。本会議が行われている淡路島においても、老齢化に伴い、一部地域においてコミュニティの維持が困難となり、農作物を求めて来る動物を追い払うことも出来ない事態が紹介された。単に労働者不足を補うためでなく、外国人とともに多文化共生社会を築く特区とする提案がなされ、注目された。淡路島において、外国人を迎えて新たなコミュニティを築く実験を行い、その結果を確かめつつ、日本全体の移民政策を検討するのは、意義深いことではないだろうか。

少子高齢化時代の到来が、日本にとって大きな試練であることは否定すべくもない。しかし、人材を唯一の資源として明治以来、近代世界を航海してきた日本である。今、歴史の新しい局面を迎えて、高齢者・女性・外国人を含む人材を重視するコミュニティを築くならば、それは続いて高齢化社会を迎える国々にとって、モデル性を持ちうるであろう。淡路会議は、日本人が少子高齢化社会を嘆くのではなく、文明的意味をもつ新社会の創造に向かって再出発すべきことを宣言するものである。

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