淡路会議声明 2014

2014年8月2日(土) 第15回アジア太平洋フォーラム・淡路会議

阪神・淡路大震災の体験に基づいて、元に戻すという以上の積極的な復興の一つの事業としてつくられたのが、この淡路夢舞台というハードです。その中身である淡路会議は、アジア太平洋のコミュニティビルディングを促進し、支えるための年1回の会議としてつくられたものです。

今年は「阪神淡路20年 次なる大災害に備えて― 企業・関西・国際―」をメインテーマといたしました。災害からの安全保障を大きな関心として、国際的文脈の中での日本、日米のトモダチ作戦、軍事的な面からの災害支援、そして日産自動車の取り組みを例に企業の災害リスク管理について、それぞれの記念講演をいただきました。さらに、二日目のフォーラムでは、基調提案をいただいた上で、国際防災協力、企業の対処、関西地域の次なる大災害への備えを、三つの分科会において掘り下げました。備え(プリペアドネス)が非常に大きな共通の認識であり、結論であると思います。

災害という重大事態への対処は、なべて難しいです。全ての災害は個性的であり、一回性を本質としています。前の災害を十分学習し、その教訓はというところで視野を狭くして集中していると、ものの見事にそれを外した角度から、次なる災害はやってきます。阪神・淡路大震災の体験があったが故に、災害とはあの程度のものだという認識を持ち、対処が甘くなるという逆説が指摘されました。何も考えていないところに突然被害を受ければ、やはりパニックに陥るのが人間です。それに対して、想定外と思われることを考えて対処しようとしてきた場合、あるいは別種の事態対処の経験を積んできた人は、立派な対処ができることが多い。

備えのためには、「正しく恐れる」ということが重要です。天災が人災とならないために、ソーシャルメディアを加えて、正確な情報を可能にするシステムをどのように再構築し、効果的な対応ができるようにするかが極めて重要です。われわれの日本社会は、「多極分散が必要ではないか、災害のことを考えよ」と言っても、オリンピックに向けて、さらに東京への投資集中に突き進んでいます。それに対して、何かあった場合のバックアップを、いろいろな組織レベルでは考えているようでありながら、日本国家としては十分考えていません。どんな災害も越えられる強靱な東京にしようというのが、今行っていることの趣旨なのでしょう。それを超える大災害を考えずに突き進んでいいのかという大きな問題があると思います。

そして、備え(プリペアドネス)とともにこの会議で強調されたのは、連携だと思います。それは極めて重層的な連携で、国連を中心とする国際社会との連携、国と国との連携、国と自治体との連携、国の中でも軍や警察、消防と自治体との連携、そして、それをつなぐNGOの活動、市民の活動、ボランティアの活動もあります。阪神・淡路大震災のときがボランティア元年といわれ、138万人のボランティアの劇的な登場がありました。東日本大震災では、それ以上に自治体間の連携が大きく進みました。NGOについては、数というよりは、それが専門性を持って活動するようになったことが、このたびの新しい状況だと思います。そうした官民諸機関の連携の全ての土台になるのが地域コミュニティであり、地域コミュニティレベルを重視した大きな重層的な連携が、さまざまに議論されました。

国連と日本という点で言いますと、東日本大震災で日本は100カ国以上から支援を受けましたが、それにしては世界に対してリアルタイムに情報発信を十分に行ったとは言えないという指摘がありました。

日本は高い水準の防災能力、技術を持っています。そのことは、阪神・淡路大震災よりもマグニチュードが小さかったハイチの地震が30万人の犠牲を呼び、東日本大震災よりもいささかマグニチュードは大きかったものの、スマトラの津波が10倍以上の犠牲者を招いたことを見ても、明らかです。ただ、日本には、国連を中心に世界のさまざまな大災害の経験を踏まえてつくってきた対処の基準、方針に無頓着な面がないわけではありません。例えば、受け入れに際してそういう面がないわけではないのです。

それから、何か起こったら、匠の技術、名人芸で、全身全霊で対処すれば何とかなるということは、個々の局面ではもちろん大事です。しかし大災害に対しては、それなりのフォーマット化、システム化が国際的にも試みられており、日本もそういうものを重視していく必要があるのではないかという指摘がありました。もちろん重要なのは基礎自治体です。日本の場合、その制度がますます強化されたときに東日本大震災を迎えました。防災、復旧・復興は自治体が主体であるということを重視する考えに立っており、東日本復興構想会議もそのような観点で報告が行われました。しかし、超大災害が起こって、自治体の能力では対処困難な場合には、最後は政府が一定の方針を持って全体対処をリードしなければなりません。これは後のFEMA(米国緊急事態管理庁)の問題のところでもう一度触れたいと思います。

それから、アメリカ軍と自衛隊の連携について、このたび学ぶことができました。阪神・淡路大震災のときにはほとんど門前払い状態であったのに対して、東日本大震災においては、アメリカ軍、オーストラリア軍の支援を得ることができました。しかしながら、まだ自衛隊とアメリカ海兵隊はまだお互いの能力を十分知らず、トモダチ作戦を行うことで認識が深まった、あるいは広く共有されるようになったと思います。次なる大災害に向けて、その体験を踏まえて、しっかりした連携が日米国家間レベルだけではなく、地方自治体と海兵隊の間でも進みつつあることを知ることができました。

また、連携の中で、何よりも大事なのはコミュニティレベルでの対処ではないかという指摘が繰り返しなされました。国際的、あるいは国家的な大きな枠組みや対処の基準、指針、そして財政的裏付けを持った強靱化の努力が必要である一方、現場に基づく細やかな工夫、現地の事情に根ざした対処を生かす、この二つの組み合わせが不可欠だということになると思います。

そして、企業のBCP(事業継続計画)について大変系統だったお話を頂きましたが、地域社会もまたCCP(コミュニティ継続計画)をそれぞれにつくり上げる工夫を、これから本格化すべきだという指摘もありました。人と人とをつなぐネットワークが結局のところ極めて重要で、兵庫行動枠組が大きな五つの指針を示していますが、その中で実は十分に進んでおらず課題になっているのが3番目の人材育成であり、また、防災と社会の大きな問題(環境、貧困など)との関連付けの分野でもあるという指摘もありました。

東日本大震災の細かなプロセスを見ても、国は財源を伴う新しいスキームをどんどんつくって、復興庁はこれでやりなさいと言いますが、自治体は、それをどうすればいいのか、困惑している。そのような中で、具体的な生活復興に役立ったのが、中間支援組織と呼ばれるボランティアやNGOの人たちの、コミュニティと行政の間をつないで支える活動だということです。

大企業と下請け企業の関係で言うと、災害対処では、むしろ系列の下請けが生きられるようにしてこそ本社もまた対処できるという認識を持って、しっかりと支えるということでした。普段はできないのに、災害のときには、利他的、献身的に、自らの危険を冒してまで人を助ける災害ユートピアといわれることが起こります。開かれた全体像の中で、他に抑圧を委譲するのではなく、関連したところを支えることで、結局は開かれた自己利益ができる。そうした分野が切り開かれたとすれば、大変意義深いことだと思います。

面白い個別提案として、二拠点居住がありました。遠いところに嫁を送れという話に通じるかもしれませんが、東京なり大都市に住んでいる人が、自分の郷里にもう一つ、かなり生活に根ざした家を持つ。そのことが実はその家族の安全保障になり、何かのときには移動して生き延びやすくするということとともに、社会全体の強靱化、さらには過疎化が進んで地方都市は壊死するという日本創成会議・人口減少問題検討分科会(座長:増田寛也氏)提言の言葉を超えるためにも、意味のある提案ではないかと思います。

もう一つの大きな論点がリーダーシップです。小さな問題については、国は関与せずに現場に任せる。そして、現場が支えきれない重大事態に対しては、たくましく、力強く、政府が全力で対応する。これがEU(欧州連合)などでも論じられる補完性の原理だと思います。日本では逆に、平時の細かいことに中央政府はうるさく口出しをし、現場ではどうしようもない重大な問題のときに、現場自治を唱えるというすれ違いを犯しているのではないでしょうか。

この問題は、FEMAのようなものが要るのではないかという議論とも関連します。日本はさらに東京一極集中に向かって突進していますが、むしろ分権化して、地方が自立的にやっていけるようにすべきではないか。そして、地方の自助が基本であることをしっかり強調した上でなければ、政府の強い全体的対応能力を強調するのはおかしいというのは、そのとおりだと思います。阪神・淡路大震災のとき、テレビを見ている一般国民の方が、首相よりもまだ認識が早かったというほどに、対応の基になる情報システムがありませんでした。その後、著しく改善されましたが、想定もしなかった原発事故を含む、東日本大震災のような複合災害が起こってみると、やはりまた対応できません。内閣府にいる防災担当大臣が対処することになっていますが、内閣府は各省庁から1~2年の任期でやってくる人の寄せ集めです。重大な事態に、しっかりした専門性を持って対処する制度として、いいとは到底言えません。むしろ、防災庁的なものをつくり、各省庁から人材を採ってきて、生涯そこで専門家として総理官邸の決断を支えるという制度化をすべきではないか。慎重論がある中でも、そういう問題提起がなされたことを報告しておきたいと思います。

以上、リーダーシップの重要性を申しましたが、それよりももっと根本的な重要な課題が人材育成であると多くの人が強調しました。結局は人であり、教育です。防災を各コミュニティで推進する人材が少な過ぎるのではないか。神戸市にある人と防災未来センターでは、各自治体の防災専門官を教育する研修を数種類行い、毎年500人の卒業生を出しています。しかし、それで間に合うのでしょうか。

昨年から、東京にある有明の丘の基幹的広域防災拠点施設を使って、東日本で500人の育成をしており全国1,000人体制で、自治体で防災を担う人材づくりが行われるようになりました。しかし、自治体にのみ人材をつくれば済むのかというと、決してそうではありません。学校の先生たちは、子どもたちへの防災教育に非常に強い動機を持ち、情熱を持っています。自治体の専門官以上に、教育する先生方への研修が必要なのではないかと思います。

また、われわれ淡路会議は、アジア太平洋のコミュニティビルディングを目的とする中で、若手で最も優れた博士論文を書いた人を顕彰しています。これも、人材育成にわれわれがいささか関わっている一つの成果ではないかと思います。そして、防災のために相互に知り合い、学び合う、それを通してしっかりしたネットワークを持って対処していくということが、この会議で多くの人に強調された点だと思います。

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