淡路会議声明 2019

2019年8月3日(土) 第20回アジア太平洋フォーラム・淡路会議

2日間にわたって密度の高い報告と議論を頂きました。いささか消化不良の面もあるかもしれませんが、極めてチャレンジングでインスパイアリングな2日間だったと思います。佐竹先生は「まとまりせんでした」とおっしゃいましたが、これほど多様な意見があること自体が宝物であって、それを無理にまとめる必要はないと思います。佐竹先生自らが最初に主要なポイントをおっしゃられ、大変見事に切り回されたので、それ以上言うべきことはないと思いますが、私なりに2日間の内容を振り返ってみたいと思います。

ナロンチャイ先生は昨日の記念講演の中で、20世紀には発展が遅れていたアジアが、21世紀になって「アジアの世紀」にまで躍進していることを描き出されました。しかしその中で、太平洋に東西分断の危険があるとおっしゃられ、科学技術を取り込んだアジアがそれを乗り越えていくだろうという趣旨の話をされました。

今は技術革命が大変な勢いで進んでいることは言うまでもありませんが、技術革命が何をもたらすのか、整理するだけの意義があると思います。新しいAIなどの技術はビジネスをすっかり変えました。日本では不十分かもしれませんが、ナロンチャイ先生がおっしゃるようにビジネスがすっかり変わったし、大学も変わりました。

兵庫県立大学では、この4月からグローバルビジネスコースを新たに設定し、留学生数十名と日本人数十名を新しい国際学生寮で一緒に生活させています。そして、全て英語で授業をします。9月から外国人がやって来るので、それまでフィリピンへ行って、英語が使いものになるように集中的に磨いています。それから、AIを使って社会を支える専門家人材が必要だということで、この4月から定員100名の社会情報科学部を新設しました。このように、地方の県立大学も努力をする時代であり、アジアの諸大学はもっとすごい勢いで、進んでいることでしょう。

しかし、技術革新は危ない面もあります。軍事技術に活用されるからです。アメリカの無人機をイランが撃墜して、危うく戦火に至るということもありました。全ての技術革新は必ず軍事化されるし、ノーベルのダイナマイトをしてノーベル賞が創設されたことにも示されるように、必ず二面性を持っています。新しい技術が革命的であればあるほど、軍事技術化される可能性があって、それは多くの殺傷能力を持つことに帰結します。そのことを警戒しなければなりません。

それから、新しい技術が権威主義体制の管理装置として非常に有効であるという議論がここでも行われました。中国の経済力が素晴らしく、「中国製造2025」に示されるような先端技術でも胸を張っているように、意外とデジタル社会は独裁政権と親和性があります。自由民主主義のうるさい説教ばかりする西側ではなくて、中国のようにすれば、人民をきちんと管理できて、経済的成果も挙げられると見られています。中国は、中国モデルの方が上だと考え、人々を全て管理して、顔認証により全ての情報を国が握っています。我々のように自由社会に慣れた者からするとぞっとする話ですが、中国の人々は案外歓迎しています。今までの無秩序で、どこで自分の富が奪われるか分からない、どこで暴行が行われるか分からない社会が、国によって管理されるおかげでむしろ安全になり、自分の財布の中を見られるよりも安全に生きていけることの方が上だという受け止め方が多いと聞きます。新技術が、そういうふうに独裁政権や権威主義体制における国民の完全管理にも使われ得るのです。

しかしながら、この2日間の会議では、そういうことが議論の中心にあったわけではなく、有本さんの基調提案では、新技術を使って中小企業が連携し、新しいガーデニングなどに取り組んでいるところが、日本の至る所にあるということを教えられました。また、この2日間で強調されたのは、新技術が人をケアし、新技術を優しい社会の貴重なツールとして生かしていくということでした。杉本先生の話を聴いて、医療分野で新技術がそこまで進んでいるのかと思いました。なかでも、3次元のバーチャルリアリティを使って、遠隔地でも診療できるという最先端技術の話を感銘深く伺いました。それから竹中さんは、こうした新技術を障がい者のケアにも使えるということを報告してくださいました。大変感動的でした。窪田先生が座長を務めた第2分科会では、そのあたりをさらに掘り下げて議論されたと報告いただきました。

そういうわけで、技術自体はニュートラルですが、大きなポテンシャルをプラスにもマイナスにも持っています。それを我々は社会にどう生かしていくのか。ビジネスにも、大学にもいいでしょうけれども、人を支え、人に優しい生き方をする平成時代の日本人の有り様を、令和の時代にもっと進めたらいいのではないかということが、多くの人が共有する感覚ではないかと思います。

そして、例えばSDGs(持続可能な開発目標)をさらに広げて、世界の貧困人口を半減するという目標が見事達成されました。これはすごいことです。でも、内容を見たら、それは中国のおかげなのです。中国に何億人もいた貧困人口が、国の経済発展のおかげで、ほとんどいなくなったからです。それで、ミレニアムの目標であった貧困人口の半減が実現できたのです。それに勢いを得て、あと15年で貧困人口をなくすと言っていますが、これはあり得ないと思います。アフリカなどのいろいろな国が全て中国のように革命的な経済発展をすることはなかなかできないからです。

それぞれの国は、それぞれの歴史的な伝統や制約の中で伸びていくものです。それをみんなが励まして、介添えをして、もっと進むようにするのはいいけれども、「おまえの言い方は間違っている」と決め付けて撲滅することはできません。ですから、人類が共有すべき17の目標では、みんなが完全に達成せよと言うのではなく、それぞれの国が自分の国なりに前進させていけばいいと言いながら、他方では一人も落後させないということも感動的な言葉で言っています。

それが容易にできない理由を一つ挙げるとすれば、SDGsに対して世界一の大国アメリカの大統領がほとんど敵対的だという点です。こういうものには反対というのがトランプ大統領の立場ですから、事あるごとにかみついています。TPP(環太平洋パートナーシップ協定)すら下りたし、パリ協定も蹴飛ばすような人が、第一の大国の大統領ですから、簡単にできると思う方がおかしいと思います。人間社会は業が深いものだという認識をわれわれは持っていた方がいいと思います。モーセの十戒のとき、既に「殺すな」「盗むな」という基本的道徳が言われているのに、人類史では一度もそれを満たしたことがないのです。

だからといって断念し、目標を下げるのではなくて、少しずつでも改善していき、目の前にいる一人の人だけでも、あるいは地域社会だけでも良くしていこうとする人間の努力は尊いものだと思いますが、全てを撲滅できるという感覚は、現実的な人間観、歴史観が足りないのではないかという心配もしたくなります。

米中の経済対立も大変ですし、国家の対立も大変だという話が先ほどありました。そのとき言わなかったこととしては、中国のすさまじい軍事能力の拡張の中で、これまで日本は平和主義でやってきたので、自衛隊は一定の防衛力でしかありませんが、日本の軍事能力はばかにできません。例えば、中国はフィリピンからミスチーフやスカボローを取り、ベトナムからも六つの環礁を取ったのに、なぜ日本の尖閣は取らないのかというと、日本に一定の対応力があるからです。海上保安庁が非常に高い能力を持っていて、中国の公船がいつ領海侵犯しても必ず先に行って待っているからです。やって来たら並走して、領海から押し出していくというふうに、空のスクランブルと同じようなことを一度も怠らずにやっています。こういう能力を中国周辺で持っているのは日本だけです。

また、海上自衛隊の潜水艦は世界で一番静かです。中国の潜水艦も随分良くなりましたが、日本の潜水艦は中国の潜水艦の音紋をコンピュータに入れて、どの潜水艦がどういう音紋を出すのかを集積しています。しかし、中国の潜水艦は日本の潜水艦と擦れ違っても気が付きません。ということは、有事のときには侮り難いということになります。それから、日本はSSM(地対艦ミサイル)を陸上自衛隊中心にたくさん持っています。もし尖閣諸島を取りにきたら、それを発射すれば全て船に命中するという非常に精度の高いクルーズミサイルです。そういうものを日本が持っていることを中国は知っています。下手なことはできないし、侮り難い面もあるから、フィリピンやベトナムに対して行ったような行動は取っていないのです。

ところが、今や中国の軍事能力は、アメリカに対抗するために天文学的にレベルが上がっています。その中で日本はどうするか。私の答えは抽象的ですが、一定の軍備は持つことだと思います。抑止力というのは、相手の脳天や心臓を刺し貫く能力を持つことによって、相手に手出しをさせないという概念ですが、日本には抑止力はありません。拒否力があるのみです。手を出してきたら、その手を引かざるを得ないようにする能力はあります。日本は戦前と違って相対的弱者であって、そういう国が戦争をすることはあり得ませんが、相手が戦争という手段に訴えてきたときにコストがないと思わせてはいけません。フィリピンやベトナムの前例を見るにつけ、われわれはそれなりに一定の備えをし、拒否力を持つべきなのだと先ほどの議論を聴いていて思いました。

私が現在心配しているのは、韓国との関係です。韓国の文在寅政権の無礼さは目に余るものがあり、安倍首相は「韓国と合意しても、すぐに崩して勝手なことを言う」として、非常に厳しい。安倍首相は、「東京裁判史観を取らない。日本は何も悪いことをしていない」と言っていたのですが、私は「それは違います。あの戦争について、われわれは深く反省すべきなのです。そうでなければ世界の信頼は得られません」と申し上げました。「戦後の平和主義的な生き方、人に優しい生き方、軍事よりもODA(政府開発援助)や文化交流を大事にする生き方を否定するのではなく、その上に立ってさらに積極的な役割を果たすべきだ」と申し上げたら、安倍首相は「そのとおりだ」と言っていました。

70年談話の文面では、中国に対してかなり心のこもったことを言っていましたが、韓国については非常に冷淡で、植民地支配の陳謝や遺憾の言葉はありませんでした。文句を言いましたが、それは総理がつくるものですから仕方がありません。というのも、「韓国の場合、取りとめなくいろいろなことを言うので、覚悟を決めて約束したら二度と動かないということが確かになるまでは、何もやりたくない。そうなれば、慰安婦問題でも思い切った額を出していい」と言っていたのです。

それが朴槿恵政権最後の年の年末に合意して、不可逆的との約束の下で10億円を拠出しました。韓国側から何度要求されてもなかなか拠出しなかったのに、ついに確かな言質を得て拠出したのです。安倍首相は逃げ口上で言ったのではなくて、本当に確かだと思えたら思い切ってやるのだということで、私は敬意を表しました。

ところが、その慰安婦合意は、文在寅政権になると、廃止してしまいました。慰安婦の方に差し上げられなかった残りのお金をどうするのかもよく分かりません。そういう失礼なことをして、日章旗の問題が起き、自衛隊機に対するレーダー照射があり、そのことに抗議しても「知らない」と言います。

一番厳しいのが徴用工問題です。1965年の合意には、「日本が5億ドルの経済協力をすることにより、その問題は全て終わりであり、問題があったら協議する、さらには第三者の仲裁を得る」と書いてあるのです。「それに沿って協議しよう」と言っても、文在寅政権は全く応じません。

こうして安倍政権のみならず、日本の世論は韓国に非常に厳しくなっているのですが、忘れていけないのは、韓国の一般の人たちの反日感情が低くなっていることです。昔はソウルの街へ行って日本語を下手に話すといきなり殴られそうに感じるほど、日本に対する反感は強かったのですが、今は韓国人が片言の日本語を言って笑い合ったりしています。民間のキャンパス・アジアの学生交流や釜山と福岡の地域交流、大学やビジネスの交流など、非常に心のこもった良い関係が一方ではあります。具合が悪いのは政治です。ヘイトスピーチの問題などもあります。文在寅政権が日本に対して冷淡で無神経過ぎることに、韓国国内のメディアや政治家の間でも批判が起こっていました。

そういう中で、もう許せないと思った安倍政権がこのたび、韓国をホワイト国から外しました。恐らく戦後日本が初めて他国に対して攻撃性を持った対処をした事例だと思います。今の経緯を顧みれば、「もう少し韓国は普通の態度を取ってくれればいいのに」と言いたくなる面はありますが、我慢できずについに発動したのです。発動する場合は感情問題ではないのだから、戦略的な方向性や出口は考えておかなければなりません。

ですから、もし韓国側が徴用工問題でそういう出口を意識していれば、「分かった。協議しようではないか。アメリカにも助言してもらおう」とやればいいのですが、怒りで我慢できず、それを発露として、どこへ持っていきたいのか分からないのです。泥仕合になると、実は韓国の方がそういう戦いでは歴史的に苦労しているだけに、上手かもしれません。

今日の分科会でもナロンチャイ先生から、戦後日本は中立性を持っていて、一つの宗教で全てではなく、公平な立場から仲裁する資格を世界的に認められているという発言がありました。そういう日本が戦後培ってきたメリットを、韓国との泥仕合の中で自ら放棄してはいけない。米中の間に立って秩序再編に働くどころか、日本がまた被告として追い詰められることにもなりかねません。日本は韓国に困っているものですから、極端に言えば文在寅政権の間は関わらない他はないかもしれません。西郷隆盛の征韓論の時代にも韓国のああいう振る舞いはあったのだろうと思います。そして、明治の日本は力で押さえる他ないと言って植民地支配、日韓併合に向かいました。そのときの気分は、今の日本国民の世論を見ていると分かります。しかし、それを行った結果、恨みを百年に残して、韓国民はまた反日に向かい、ますます傷は深くなったのです。

そういうことを省察して、これはとても耐えられないものではあるけれども、心ある人から韓国に絶えず助言していただく形を十分につくらなければなりません。

ともあれ、この2日間、青木先生の講演でも、力の体系、利益の体系の時代を超えて、文化を重視すべき時代だということを力強く語ってくださいました。日本はグローバル化の時代に文化と学術で勝負せよ、兵庫県にも文化のセンターになるような立派な拠点をつくってはどうかというのは、大変留意すべき提案だと思います。

安藤さんは、日本人の生き方について根本的な問題提起をされました。志を持って、この地、社会、世界に資する行動を取ってはどうか。誇りを持ち、独立自尊であるとともに、世界と共に生きる。そして、希望を持つ青リンゴであろうではないかという、大変胸に深く落ちる話をしてくださいました。この淡路の夢舞台をお作りになったのは彼ですし、淡路会議の創設者でもあります。誠に20周年にふさわしい話であり、しかも彼としては恐らく遺言のような、「五つ六つの臓器がない中で元気になった人を見たことがない」と医者に言われたというなかで本当に頭が下がります。この20周年を機会に、彼は全身をもって話してくれました。大変感慨深い20周年の2日間でありました。

皆さんが発言されたこと一つ一つを全て受け止め、以上のように私なりに2日間をまとめさせていただきました。皆さんの素晴らしい貢献に対して敬意を表し、感謝して終わりたいと思います。どうもありがとうございました。

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