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HATコラム

東日本大震災と殉職

研究調査本部上級研究員 片山 裕

研究調査本部上級研究員 片山 裕

1949年生まれ
京都大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学
神戸大学大学院国際協力研究科教授
(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構研究調査本部
上級研究員

昨年、ウォール街で始まった経済格差に反対する抗議デモは、今日の世界経済の主役である金融資本に対して、「貪欲(greedy)」であるとの道徳的な非難を浴びせている点で、これまでの反格差運動をさらに一歩推し進めた観がある。オバマ大統領も、規制の必要性に言及した金融資本の暴走気味な展開は、いうまでもなく今日の政治経済のルールに照らして合法的である。国際金融に携わる人たちは、「貪欲」といった非難があまりにもナイーブで時代錯誤的であると、心中大いに反発しているに違いない。今日世界の多くの人々が高い水準の消費生活を享受し、とりわけ先進国国民の多くが高水準の医療・年金を得られるのは、まさに大量の資本が国境を越えて自由に行き来できるためであると反論するであろう。

実は、こうした反グローバル化の動きは、19世紀半ばアジア各地に発生した。「農民反乱」がそれである。農民は、近代国家が従来の物納ではなく金納によって国家財政を再編したときに立ち上がった。物納から金納への転換は、不作時の農民の負担を大きくし、場合によっては飢餓をもたらしたためである。

こうした反グローバル化としての農民反乱を、フランス領インドシナを事例に分析したのがアメリカの政治学者ジェームズ・スコットの『モラル・エコノミー』(1976年)である。スコットは、天候などの外的な環境によって農作物の収穫が不安定な状態にあっては、農民の最大の目的は収穫の増大(最大化)ではなく、不作時に餓死者を出さないようにする「安全第一」であるとした。この「安全第一」は収穫の一定割合を小作料として納める借り分け小作(物納)制度のもとでは、ある程度機能していたが、定額小作制になると、全く機能しなくなる。そのため、農民は、元の「温情主義」的な借り分け小作制度への復帰も含め、地主の道義的な責任を求めて農民反乱を起したのだと分析した。

もちろん、こうした「安全第一」が農民の最大の動機であるとする見方に対しては、批判があり、サミュエル・ポプキンは、植民地時代の農民も自己利益の最大化を追求していたと手厳しく批判した。これが、有名な「モラル・エコノミー」論争である。

ところで、19世紀半ばの農民反乱は、拡大する商品資本主義の動きにとっては時代錯誤的であり、圧倒的な近代兵器をもつ植民地支配者の弾圧によってあえなく潰えてしまう運命にあった。スコット自身、農民反乱の「反時代性」を認めている。

さて、今日の反国際金融資本の運動は時代錯誤的であろうか?まず、この二つの時代の反グローバル化運動の共通点は、批判の根拠が合法性にではなく、道義性におかれていることである。ワシントンやウォール街での「反乱」は、明らかに人々の感性やモラルに直接訴える。その場合に強調されるのは、個人の利益追求には当然制約が加えられるべきであり、「共同体」の他の成員の犠牲の上に自己利益の追求がなされてはならない論理である。こうした道義的な批判が具体的な政策論にまで昇華しない限り、散発的な運動に終わる可能性は大であろう。

他方で、この二つの時代の運動には大きな相違点も見出せる。それは、東南アジア(アジア)の農民反乱は、ほとんどがグローバル化の周辺部(農村や都市下層)で起こったのに対し、今回の反金融資本主義の動きは、世界のパワーセンターで起こった点である。国際金融資本の本家本元で、近年の金融資本の展開を「暴走」(ロバート・ライシュ)とみて、反道義的であるとする批判が、左翼運動と無縁であった人たちの間からも出てきたのである。この違いはきわめて大きい。

翻って、今日のアジアをみたとき、アジアにおいても「モラル・エコノミー」的な議論は強まってきているように思う。グローバル化という名の資本主義の金融資本化は、明らかにより少ない「勝者」と圧倒的多数の「敗者」を生み出しつつある。ある時期までアジアでは、中間層が増大し、それが政治と経済の中核を担っていた。その中間層が急速に縮小しつつあるのである。新たに敗者となった人々は、どのように、異議申し立てを行えるのであろうか。最大の武器は、やはり道義であろう。少数者の一人勝ちは、その勝者も含め、ゲームや制度そのものを根底から揺るがす危険があるとの「明日は我が身」という共同体の論理しかないであろう。

昨年3月に発生した東日本大震災と福島原発事故は、日本国民にとっても、自己利益の最大化と同時に、困難な状況においてもドロップアウトをなるべく出さないというモラル・エコノミーの論理が、いまでも重要な行動指針になることを、改めて教えてくれたように思う。